秦氏

秦氏のルーツ(その3):秦氏の渡来と奴國
秦氏は、『日本書紀』応神天皇条においては応神天皇14年(書紀公式年表では283年)に百済を経由して120県の人を率いて帰化したと記される弓月君が秦氏の祖とされている。秦氏は倭国の土木工事、機織り(秦氏が名前の由来とされている)、など、倭国の基盤形成に大きく貢献した氏族である。
秦氏は最初から「秦」とは名乗っていなかったようである。おそらく、羌族の後秦(始皇帝の秦王朝と関係がない)との関わりが深く、自らの正統性を主張するために、秦姓を名乗ったのではないかと推定できる
① 『日本書紀』の記述
· 応神天皇14年(283年?)条:
「弓月君(ゆづきのきみ)が百済から来朝し、120県の民を率いて帰化を願うが、新羅に阻まれた」と記される。この時点では「弓月君」と呼ばれている。
· 応神天皇20年(299年?)条:
「秦造(はたのみやつこ)らが弓月君の民を率いて来朝」とあり、この時から「秦」の姓(かばね)が使われ始めた可能性がある。
② 『新撰姓氏録』(815年)による伝承
• 「秦氏」の祖は秦始皇帝の子孫・功満王(こうまんおう)とされ、その子・弓月君が応神朝に来朝。
「秦」姓は雄略天皇(5世紀後半)の時代に「秦酒公(はたのさけのきみ)」が朝廷から賜ったと記されている。
❶ 田川の歴史
『豊前国風土記』逸文の香春(かわら)郷に、次のような記述がある。
「昔者、新羅の国の神、自ら度(わた)り、来りて、此の河原に住みき。便即ち、名づけて鹿春の神と日ふ。又、郷の北に峯あり。頂に沼あり。黄楊樹生ひ、兼、竜骨あり。第二の峯には銅、并に黄楊・竜骨あり。第三の峯には竜骨あり。」
竜骨とは、石灰岩のことを指すという。つまり香春岳には、石灰岩や銅などの鉱物資源があったことが、古代にも知られていたのである。『日本鉱山総覧』によれば、香春岳(かわらだけ)からは、金、銀、銅、鉛、亜鉛、鉄、石炭が採掘されたという。なお、実際に銅が採掘されたのは二の岳ではなく三の岳である。そこには採銅所という地名が残っていて、JRの駅もある。
田川郡香春が、朝鮮半島と交流を持っていた地であることがわかる。北部九州では、極めて格式の高い香春神社があり、宇佐八幡宮の元宮・古宮とも言われている。神官は、秦氏系の赤染氏と、鶴賀氏であるが、この鶴賀氏も若狭の敦賀との関連も考えられる渡来系の氏族である。祭神は辛国息長大姫大目命(からくにおきながおおひめのみこと)、忍骨命(アマテラスの子で、地神五代の2代目。神武天皇の高祖父。)、豊比羊命(、神武天皇の外祖母、住吉大明神の御母)の三座である。
➋ 秦王国;宇佐
豊前には、もうひとつ、宇佐八幡宮という秦氏の信仰の拠点がある。皇室の庇護も篤く、日本の神社体系では枢要の位置を占める神社であるが、本来は渡来系の秦氏が祀っていた神社と考えられている。八幡宮では細男舞(くわしおいのまい)が毎夜行なわれ、和間浜では古表(こひょう)神社と古要(こよう)神社の人々が傀儡舞(くぐつまい)をしたという。細男舞も傀儡舞も、いずれも秦氏の担った芸能である。「能」や歌舞の元祖は、飛鳥時代の秦河勝と言われているが、さらに、その源流が宇佐八幡宮に残されている。
一方、 中国の隋の正史である『隋書』の倭国伝に、興味深い記事がある。大業4年(推古16年、西暦608)に揚帝が蓑世清(はいせいせい)を倭に派遣したときの順路を記したものである。
「百済を度り、行きて竹島に至り、南に耽羅(たんら)国を望み、都斯麻(つしま)国を経て、遙かに大海の中に在り。東して一支国(壱岐)にいたり、又、竹斯国(ちくし)に至り、東して秦王国に至る。其の人華夏(かか)に同じ。以つて夷(い)洲と為すも、疑うらくは、明らかにする能わざるなり。又、十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は、皆倭に附庸す。」
「その風俗はほかの地域とは異なっていた」と記述されている。「華夏」とは周辺夷族と異なる中華そのものという意味である。ここに書かれている秦王国こそ、豊前一帯に秦氏が形成した根拠地である。邪馬臺國の奴國である。秦氏が奴國で秦王国を築いたから、邪馬臺國が河内に進出した時に、ともに河内に行き、倭王に協力したものと考えられる。
即ち、古代においては、半島から倭国に至るルートは
対馬⇒壱岐⇒竹斯国(北部九州)⇒東して秦王国⇒十余国を経て海岸(豊後水道、瀬戸内海)が多く利用されるルートであった。また、冒頭に示した『豊前国風土記』によると、田川郡香春がその経由地の要であったことがわかる。
百済から渡来した秦氏は北部九州から田川郡香春から豊前へ。さらに河内へと移っていたと考えられている。北部九州東部においては弥生時代~古墳時代にかけて、遠賀川流域は物部氏が、豊前の地は秦氏が、宗像氏一族とともに主要な勢力であったことがわかる。また「竹斯(筑紫)国より以東は、皆倭に附庸す」とあるので、秦氏渡来時には、豊前から東にかけて倭国の統治範囲であった。隋書記載の秦王国が邪馬臺國の奴國であったとすれば、秦氏が、邪馬臺國に協力し、河内に移り河内王朝に貢献したことが理解できる。邪馬臺國が東九州・瀬戸内文化圏の国家であったことを裏付ける記述である。

