やっかみの心

【やっかみの心】
迷った時に戻る基本の書。
小説上杉鷹山。よく読む。

佐藤が喜びの色を顔いっぱいにみなぎらせて、ことばを添えた。
「佐藤はな、ひとりでは私のめんどうを見られぬのだ。私がわがままなのでもてあましているのだ」
治憲は笑ってふりかえった。
「いや、そんな。そうではございません。そうではございませんが、山口がきてくれれば、非常に助かるのです」
あわてて佐藤は弁解した。
そういうふたりのやりとりが、自分への好意であり、開墾のつらい仕事から、そろそろ解放してやろうという治憲のきもちも山口にはよくわかった。しかし、山口はいった。
「ありがたいおことばでございますが、ご辞退申し上げます」
「なぜか」
馬をすすめながら治憲はきいた。山口はこう答えた。
「もし、私がおそばにまいりますと、開墾が出世の手段に変わります」
「なに。それはどういうことか」
「まず、山口は、開墾などと、体裁のいいことをいいながら、実はお屋形さまのお目にとまって、おそばに仕えられるようになるための魂胆だったのだ、といわれます」
「馬鹿な、そんなことは誰も思わぬ」
「お屋形さまはお思いにならなくても、藩の人間はそう思います。まだまだ藩の人間は、古いどうしようもないものの考え方をしている者が沢山おります」
「…」
「私がおそばにまいると、私への非難とは別に、たちまち開墾地に人が殺到するでしょう。いや、すでにそういう動きがあるのです」
「なぜだ」
「そのほうが出世の早道だからです。お屋形さまのお目にとまるのが早いからです。殊に、このたびのご巡村が、開墾地だけでございましたから、なおさら、そうなりましょう」
「開墾は遊びではない。つらい仕事だ。そのつらさを自らもとめるというのか」
「そうです。人間とはそういうものです。私はそういう人間に土を耕してもらいたくありません。土が汚れます。同時にこのことはお屋形さまへも飛び火します」
「私に?何の火が飛んでくるのだ」
「お屋形さまは、出世を餌に藩士を開墾地に行かせる、と…」
「…」
山口のことばに治憲は黙し、考え込んだ。
考え込んだ治憲が、何を考えているかは、山口や佐藤にもよくわかった。
それを承知のうえで、山口はいった。
「さぞ、人間とはそれほどいやしいものか、とお思いでございましょう。しかし、出世のためには、なりふりかまわないのが、多くの人間の本心でございます。また、それをいやしい、と頭から退けるのも可哀想でございます。私や佐藤は、こうしておそばにいられて、本当にしあわせでございます。多くの者がこのようにはまいりません。だから、お屋形さまのおそばにきたくても、こられない者は、逆にお屋形さまの悪口をいうこともあるのでございます」
藩士たちの心情をつぎつぎと分析し、しかもなお同情する山口新介の心の温かさに、治憲は、目をひらかされた。思わず、
「おまえは、できた人間だ」
と振り向いた。
「とんでもない」
と首をふる山口は、
「そういうわけで、私は開墾地に戻らせていただきます」
といった。
治憲も、もうとめなかった。

人をうらやむ心。引きずり下ろそうとする痩せた考え。
それでもなお、そんな人間というものを信じて進む温かさ。人としての軸ある姿勢。山口新介。
学ぶべきこと実践すべきことは、あまりに多い。
以上