長屋王の変

729年(神亀六年)、長屋王が謀反を計画しているとの密告を受けて、六衛府の兵が尋問の為に屋敷を包囲した。この時長屋王は何も弁明せず、妻子とともに自害した。(長屋王の変)
この九年後、長屋王に恩義のあった人物が密告者を殺す事件が起こった。
「續日本記」には、殺害動機として「王を誣告した相手だからだ」と記されている。誣告とは「無実の者を陥れること」
つまり、日本の正史として書かれたこの書が、長屋王は無実であったことをはっきり認めているのである。
長屋王は、天武天皇の孫であり、左大臣という要職にもあった。又、時の聖武天皇は長屋王と血縁関係にある。
一方、長屋王を密告したのは、無官の下級官吏。その程度の人物による密告なら
労せず疑惑を晴らせそうな者だが、長屋王は、申し開きもせず、即日自害している。
又、長屋王の妻も、聖武天皇と血縁関係にある皇族だ、それなのに、妻の身内も長屋王の助命を試みとていない。もちろん聖武天皇自身も庇った様子はみられない。長屋王は、何故自害の道を選んだのか。
権謀術数と権力闘争に満ちていた古代朝廷なら、いくらでも生き延び、又、復権するチャンスはあったはずなのだ。
しかし、彼が死を選択したのは、逆にこの権力闘争、権謀術数の陰謀から逃れられないことを悟ったからだとは考えられ
ないだろうか。
この陰謀とは、長屋王を追い落とすために、天皇の外戚である藤原一族が敷いた包囲網のことである。
陰謀の裏には、古代朝廷の入り組んだ婚姻関係と一夫多妻制が根底にあった。鍵を握るのは聖武天皇の妻光明子である。
光明子は藤原不比等の娘で、天皇の妻であったが、皇族の女性に限られていた「皇后」という立場ではない。
つまり、聖武天皇が皇族から迎えた妻に子が出来れば、その子が皇太子とされ、光明子の子に勝ち目はない。
裏をかえせば、彼女が皇后になれさえすれば、後継の天皇に藤原一族の血を引く者を立てることも可能なのだ。
しかし、そのためには律令制度を厳密に守ろうとする長屋王がどうしても邪魔であった。
そのため、早いうちに、長屋王を亡き者にしておこうとする藤原一族に、彼は陥れられたと考えると、長屋王の死の裏側が見えてくるように思える。
当時の朝廷においては、長屋王は、天武天皇の孫である自分の方が、天武天皇の曾孫である聖武天皇よりも格上だと考えていた。そのため、天皇に対しても歯に衣きせぬ発言をしていたのだ。そんな彼を、聖武天皇がけむたく感じていたのかもしれない。
藤原氏と聖武天皇の長屋王に対する思いが合致した結果、この事件がおきてしまったと考えることも出来ます。
長屋王の変の後、これを画策した藤原四兄弟は亡くなる。原因は天然痘とされているが「長屋王の祟りだ」と噂され、長屋王の邸宅の跡地に建設された商業施設も相次ぐ撤退、現代にも長屋王の怨念が
渦巻いているが真偽はわからない。

出てきた木簡には、長屋親王と記されていたことを考えれば、彼の父、高市皇子は、どうやら天皇であったというのが、筆者の説です。

以上