イニシエーションスピーチ

2023年6月 福岡東南ロータリー卓話

イニシエーションスピーチ20230616金曜日原稿
2023/06/16ver02版
1ページで大体1,200文字。4分間。つまり6ページで24分。

一段落目
(一礼)おはようございます。2023年4月に入会いたしました新人会員の筆者でございます。聞き手が最も話の内容を理解しやすい話す速度は、1分間に300文字のペースだといわれています。ちょうど、NHK(日本放送協会)のアナウンサーがニュースで原稿を読む速度と同じです。話の内容を整理するため、事前に原稿を用意し、話す訓練を経て参りました。皆様の貴重なお時間を頂戴するにあたり、よくよく考えましたところ、様々な電子的手段を駆使してパワーポイントでスライドで説明するよりも、ここは原点に立ち返って、サンパチの通称で親しまれるSONYから1970年に発売されたコンデンサーマイク一本で勝負するコンビ漫才のように、またかつて紅白歌合戦で他の豪華絢爛な舞台装置を駆使して他のアーティストが競演する中、ピンライト一本で浮かび上がってヨイトマケの歌を熱唱した美輪明宏のように、マイク一本話一本で勝負させていただきます。
そして、この卓話全体の終了時間は13:25(厳守)とさせていただきます。これは、私が生涯で一番印象に残っている講義、大学の専門講義、足りない単位を増すためにとりあえず取った、臨時の集中講義で東洋法律史だったか西洋経済思想史だったか内容はとんと忘れてしまいましたが、とにかく90分の講義が始まった瞬間、その臨時教授は今日の講義はかならず定時の10分前に終わるから協力してくれ、と学生に呼びかけたのです。そしてきっちり10分前に終わりました。この気持ちよさとすっきり感は、30年経った現在でも鮮明に残っております。故に、この卓話も、終了時間を予め明示して、そのとおりに終わるということを第一に目指します。それから、私の話が終わり点鐘が終わりましたら、私は例会運営委員として片付けなどやっておりますから、ぜひお声なりをかけていただき、ひとこと感想なりをいただけましたら幸いです。

二段落目
さて、先週のこの卓話の時間は、台湾の頼(らい)パストガバナーをお迎えするという、超大物のスピーチでした。今週が新人会員の私のスピーチ。ロータリーの包容力を感じます。私が台湾ということで無理やりつなげるならば、私が京都大学の卒業生で最も尊敬している台湾初代総統、李登輝先輩のことくらいですけれども、その後輩の一人として大事に務めたいと思います。私が私のモットーとして大事にしておりますのは、①挑戦、②感謝、③希望、この3点であります。といいながら、まず、②感謝からお話します。私は1974年、昭和49年、第二次ベビーブームの真っ盛りの子供として、福岡県北九州市八幡東区中央町、1901年にかの官営八幡製鐵所を記念高炉のお膝元に生まれました。小学校は八幡小学校。中学校は中央中学校です。クラスの親の殆どが製鉄関係の職についており、また近所の商店街は大はやりで、そこの師弟もたくさんおりました。企業祭という八幡製鐵所の高炉に火が入った1901年11月を記念した大きなお祭りが大谷球場近辺で行われ、企業見学といえば八幡製鐵所の大高炉と圧延工場の見学が定番でした。私の父は福岡県警小倉南署の刑事課所属の刑事であり、かの全国的に名を轟かせた特定危険指定暴力団、工藤會(会は難しい字です。ここはこだわりあります)との対決に明け暮れた日々でありました。夜中に電話で命令を受け急に出動していたことを思い出します。クラスの中にも、その二次団体やフロント企業や組織に親が所属していたのも覚えています。タクシーの運転手やテキ屋の兄ちゃん、などです。このような時代背景に私は生まれ育ちました。公害も真っ盛りの、七色の煙と北原白秋が謳った、そのどんよりとした空の下、私が小学生のとき、母が重いリューマチにかかり、動けなくなっていきました。中央町の公団住宅の借家住まいの父は、家を持つことは諦め、家事や介護をしながら警察署にかけあい、厳しい最前線の刑事課から、交番勤務に勤務先を変えてくれました。父方の祖父母の里は熊本県上天草市。かつて天草島原の乱で大きな戦禍があったその地に、私の父方(上田家)は地域の名主として、犠牲者を弔う曹洞宗の禅寺を迎えて犠牲者を厚く弔ったということです。私と年子の弟は、それぞれ、不自由なく暮らすことができましたが、高校に上がったところで、さすがに夜遅くに帰ってくることになる部活動を続けるために、そこで家を出て、母方の祖父母の家から高校に通うことになります。弟は、佐賀大学農学部を出て今は宗像が本社のキューサイに勤めています。父が下級職の現場警察官、公務員。母は一級障害者の借家公団住まいの4人家族。これが私の原風景です。

三段落目
私が進学したのは福岡県立東筑高校。中学校のときに、石田投手伝説で甲子園に出場した文武両道の高校です。先輩にはガバナーノミニーの濱野先生はもちろん、高倉健、仰木監督や私のひとつ下では当時最年少芥川賞作家の平野啓一郎がいます。最も著名な高倉健さんのエピソードを一つ。幸せの黄色いハンカチという映画の冒頭、網走刑務所から出てくる高倉健扮する主人公は、近くのラーメン屋に生き、ラーメン、カツ丼と注文して食べ始めます。ワンテイクで取り終わった監督に対し、このシーンがあるので、三日間食べませんでした。高倉健はそういう先輩です。また名だるる名優たちが、健さんからロレックスの時計をもらった、名誉なことだと自慢している、この人こそ上からの評価より巷から湧き上がる評判の人だと思っています。及ばずも目指したい先輩です。
中学までの成績は一番のわたしも、ここでは少しサボると一気においていかれる感じがして気合が入りました。そして、ここに居た二人の京大理学部出身の不良教師に強烈な影響を受けることになります。一人は山岳部顧問である生物教師の福泉先生、もうひとりは黒板に向かってぶつぶつ話す数学の永井先生。山岳部に即日入部して、暑い夏には北アルプスで高山病になりそうになったり、寒い冬には雪上歩行訓練と称して鳥取県大山にテント泊のスキー合宿に行ったり、福岡県の山々は20回以上、25キロの荷物を担いで20キロメートルの山道を6時間で走破するといった無茶な制限時間付きの山岳大会などに出たりしました。顧問の不良教師は、夏の2ヶ月半、教育委員会と話をつけて、調査登山の名目で、チベットのムスターグ・アタという山に挑戦して学校を空けて、生物の授業は全くなしになりました。お陰で自分で勉強するという癖がついてセンター試験での生物の成績は優等でした。

第四段落
世界に有名なタイムズ・ハイアー・エデュケーションという評価機関があって、毎年、世界の大学ランキングベスト100を発表しています。その中に、日本の大学がふたつだけ混じっています。東京大学と京都大学です。この、他の、年間500万円クラスで学費がかかるところにあるランキング上位大学と違って、行くのに格安この上ない、年間40万円でいける日本の国立大学、公団住まいの私にも行けるレベルです。そして、日本人なら必ず仕事なりで訪れることになるであろう、鎌倉江戸東京よりも、太宰府のお膝元宝満山を登りまくったこの身としては、この朱雀大路の大宰府王朝を併呑して奈良京都に都を立て、倭の国を廃して建てた日本が、倭という名前から日本という名を冠した本格的国家になったそのルーツを見たいと思い、京都大学法学部を目指すことにしました。山岳部の最後の県大会が終わり、3位となりインターハイ出場が途切れたところで引退。そこから怒涛の勉強と奇跡の末脚で現役合格します。これは、母のおかげです。病気で、リューマチと30年以上戦い、愚痴もこぼさず文句もいわず、2年前に69歳でなくなりました。極めて立派な人生であり、母はその死をもって子どもたちの教育を完成させたと思っています。そして、祖父母宅に預けられている私が、祖父母の家に預けられているから勉強が進まないのではないかと祖父母自体や父母が気をもむのが耐えられなかったというのが根底にあります。母方の祖父は大分県中津の家老格の末裔で、戦中宇佐海軍航空隊に志願して整備兵として従軍。特攻機の零戦や艦爆も多く見送り、憎き米軍、グラマンF6Fヘルキャットの機銃掃射を受けて生き残り、祖母は戦後に初めの夫を無くして服役した祖父と再婚、3番めの娘、私の母をもうけてくれました。祖母のすぐ下の弟はビルマで戦死、その下の弟は大和特攻の12隻の艦隊、副艦である軽巡洋艦矢矧に機関士として乗艦して戦死しました。その御蔭で私の生命があります。靖国神社と福岡県護国神社に祀られているご先祖様、その近くの六本松に私は家族5人で住んでいます。そのような話を聞いて育ちましたので、生きていることに感謝、絶対に結果を出す、無限の体力と気合と時間を投入したのです。家族や学校、部活の友人やクラスメイトに感謝する18年間の北九州生活でした。

第五段落
続いて①挑戦、について話します。大学では九州弁を喋るのはほとんどおらず大阪弁や京都弁が支配する中、元々合宿することが苦ではない私は琵琶湖河畔の瀬田の唐橋に大きな合宿所を持つ端艇部、ボート部に1993年に入部しました。仲間たちは面白く、充実した大学生活でしたが、一緒に隣で寝ていた法学部の同窓、水谷康弘君が2006年に京大文学部博士課程の博士論文の却下を苦に吉田山山頂の喫茶、茂庵で首を吊って自死するという事件が起こり、京大のことが一気に嫌いになります。自分史上最高の文章ですので、追悼文で寄せた言葉を少し引用します。
一回生の夏、ボート部合宿所の3階に初めて上がったとき(入部が少し遅かった)、この場所空いてるよ、ということでおやじ(水谷の愛称です)の隣のゾーンをあてがわれました。おやじの布団はちょっと汗臭くて、ウレタン低反発枕のように押したら戻るまで時間がかかるような感じで、おやじはその中に蓑虫のようにくるまって幸せそうに本を読んだり誰かに抱きつかれたりして楽しそうでした。同じ法学部だったもので、理系学生のように実験も何もないので、つまり大学に積極的に行かなければいけない理由が全くなくて、そんなわけで、合宿所で、朝の練習が終わって大量の食事を食べながら、昼までいろいろ話をして、昼になったら近くのファミレスやらどこかにめし食いにいって、上に上がって本を読みながらまた夕方の練習に入る、みたいな平日をよく過ごしました。
三回生の夏だったか、おやじと一緒に滋賀県大津の西武百貨店で展示品陳列のバイトをした後、大学の年度末試験対策のノートが手に入ったということでコピーさせてもらいに下宿に行く途中、腹が減ったので「ブラウン」というよく行く京都の定食屋で定番のドライカレーをおごってもらいました。バイト代は現金支給だったので普段はお金にうるさい彼も気持ちが大きくなっていたのでしょう。大盛りでもいいかと聞く私に「ええよ」と短く返してくれた彼の声を思い出します。それから彼の下宿で、真面目に授業に出ている人のノートのコピーのコピーを借りて、そのまま帰ればいいのに特にやることもなく、スーパーファミコン「ガイア幻想紀」というマイナーなゲームをやりながら、酒も飲まずに夜中までだべって翌朝帰ったものです。おやじ、実に日常な、でも貴重な大学生活をともに過ごした、合宿所の横で寝ていたおやじ。本当にもう二度と会えずとても悲しいです。でも私はこちらでもう少し粘って切れずに、爪痕を残して挑み続けようと思います。これが私が挑戦を続ける理由です。

第六段落
最後に、③希望について話します。大学を4年で卒業するのは珍しい我が大学にあって、司法試験択一に落ち、日本銀行や日本開発銀行、東京三菱銀行などにも落ちた私は、関西では特に有名でない、でも東京に行けば名門の日本興業銀行に関西採用枠として採用されることになります。かの銀行で出会った同期、福岡地所社長をはじめ5人が、いま福岡地所グループにばらまかれて所属しております。その5名を代表しまして、同期と言いながら一番歳の若くて動きやすい不動産開発会社の中の施工管理、ビルメンテナンスを行っておりますグループ会社に所属しております筆者が、縁あってこのロータリーに呼ばれたということになります。興銀がみずほに統合となりもう20年余が経過しておりますが、人の縁は良いものでわれわれも仲良くやっております。こういうのは、立場が上のもの、例えば社長なんかが言うと嘘くさいのですが、最も現場に近いであろうと思われるわたしなどからいちおうそういう声があること、昔に参画したものも、直近昨年参画した福井なども等しく大きな顔をしているのを考えますれば、それなりに変化多い中それぞれが頑張り、日々挑戦して失敗や成功の爪痕を残しているのではないかと思います。社長8年目、管理部門、新規事業、開発事業と海外事業、そして筆者は設備管理、施工事業と、それぞれの持ち場で奮闘しております。3年のコロナの喪が開けて、オフィスや商業施設、ホテルに人が戻ってくるようになりました。それも急速に戻りつつあります。一方で、在宅勤務も浸透し、もはやオンラインがオフラインを包み込む、どこでも働くという環境は、大きなパラダイスシフトを引き起こしています。かつて、当時の、陸の世界最強帝国であったロシア帝国を向こうに回し、必要な戦費をロンドン市場から調達する、そんな中、日本の鉄鋼業、重化学工業の発展を担うべき1902年、日本興業銀行は、国家予算の1割もの巨費を投じた資本金1,000万円設立され、2002年までの100年間を刻みました。この大きな先輩方のプロジェクトスピリッツを持って、これからの福岡の百年の計を研いでまいります。福岡の街をおもしろく。どうぞ応援いただきたく、よろしくお願いします。

第七段落
最後に。
わたしは、人間が人間をより良く知るにはどう動けば良いのだろうかということを常に探している奇天烈な探索者であり人間組織の研究家かつ実践者です。人の興味関心集中の源泉とは何か、モットーとは何か、人の生きる意味は何か、そのようなことをわりと人生の初期の段階から考える、変わった少年でした。
これは、わたしの母親が小学校高学年の頃から重篤なリューマチという病気にかかって、2年前に亡くなる、というところが大きく影響していると思います。絶対に120年後には、今いる人間は全て死んでしまう、という深淵や絶望を見てそれでも前を向いて歩けるのは気合が必要です。死なないとすれば、手塚治虫の火の鳥未来編の世界ですね。いずれにせよ、地獄に変わりなく、虚無の塊から目を逸らさなければ多くの人は平静を保てない、自身が生き延びたとしても、自身が愛した親しき人たちは、櫛の歯が抜けるように去っていくのが人生であります。
そんな人間社会において、強烈な裸の人生で大きな足跡というか爪痕を残して今いる人間たちに指針を与えるような超人たちが、この日本には多くいることを学びました。多くの宗教、思想、哲学や主義も勉強しましたが、やはり全てを網羅しても結局答えを外に求める限り、自分に矢印を向けない限り、指針は定まらず心の平安もなく集中力は鈍り感性は減退する、そのように思うようになりました。
このような境地に至った昔の偉い人々は、目の前の名誉や権力、華やかさや、ましてやカネなどに決して踊らず、何かの使命感に殉じて自らを奮い立たせたのでしょう。
古くは弘法大師空海。そして上杉鷹山、近世では吉田松陰。そして日本経済金融史上の第一等といえば渋沢栄一でしょう。
江戸幕府慶喜将軍直系の水戸藩家臣にしてそのよすがの全てを失った渋沢は、あらゆる日の当たらない東日本の者たちを励まして多くの企業の発起人となり人と事業を育てました。三菱財閥を作り上げた土佐藩士の岩崎弥太郎と違い、自身の株の持分は極力少なくまた早期に売却していまい、家業として残したのは地味な倉庫業の渋沢倉庫のみ。けれども百五十を数える国立銀行を作り続けるなど、その無私のやり方は、下手な金儲けを超えまくる巨大な評判となったわけです。人を見下す評価ではなく、他人から湧き上がる評判。これこそが、人が人として究極に求めるものなのかもしれないと今のところ思っているのです。
人生に爪痕を。挑戦し続けること。感謝をわすれないこと。希望を持って進むこと。今のところ、この三つのモットーを携えて、22歳から転々と11もの会社を渡り歩き、各所でインパクトを残した地場企業ゼロ代目のサラリーマン生活もそろそろ終わり、ライスワークとライフワークにそろそろ打って出ようかと念じて爪を研いでいるところです。
人生に意味づけを。死ぬ時に良く戦ったと笑って逝ける人生を。

合理的に生きることを
拒否しながら
生きています
ままならぬ、不都合な自身の人生の深淵を覗き、それでもそこに吸い込まれない人格と教養を身につけて
よく戦ったと
世の中に爪痕とインパクトを残して死ねたら最高だと思っております
人生は続きます
どこどこまでも切れない
噛めば噛むほど味の出る
スルメのような人生を
ロータリー諸賢の皆様のご健康を祈念いたします。
本日は、まことに、ありがとうございました。
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