自転車も断捨離

断捨離シリーズ

自家用自転車も断舎離しました。着々と身辺整理が進んでいます。ついに!自転車も!!断捨離したぞーおおお、JOJO!!これからは、自転車シェアサービスの「チャリチャリ」などのレンタル利用か、徒歩か、バスか電車か自分で運転手として運転する自動車か、他人に運転してもらって同乗させてもらうやつか、カーシェアか、救急車かパトカー(警察車両)か、ということになります。これだけ移動手段があり、かつ最も健康にもよく考えも捗る散歩、徒歩をもっと生活に取り入れるべきだったのです。ですのに、自分の自転車を買ってもらった小学校低学年の時代からはや45年、だいぶ自家用自転車に慣れきってしまいました。これからの人生は、自分のモノを極力持たずに他者にすがって、ではなくて他者と共存しながらできるだけ自助で生きていきたいと思います。なんでもかんでも巡回バスよこせ、みたいな田舎の限界集落の老人みたいな感じになりたくないというのと、自分の健康は自分で守るということと、それから、予定を余裕を持って移動時間込みでこなすためにも、そもそもぶっ飛ばせる自家用自転車などない方がいいんじゃないかとふと朝起きて思ったところからこの話は始まっております。ですので、わたしはいつも行き当たりばったりです。

チャリチャリという自転車シェアサービスですが、これは家本さんという知己が全国展開しています。彼は小さい頃に下半身が動かなくなってしまい、高校いけなかったのでやむなく中卒起業家としてITプログラミングの仕事なんかしながら、そしてリハビリしていたら奇跡的に足が治るという体験をされて、それ以来、自転車で自分の生命が救われたといってチャリチャリを全国展開している、実はチャリチャリ発祥の福岡ではなくて名古屋の人です。チャリチャリは、名古屋や久留米、佐賀に熊本と進出しており、そして国立大学では初の熊本大学構内までチャリチャリポートができるという塩梅になってきましたので、学生さんの利用も増えそうです。福岡の大学も入れたらいいのに。

断捨離に話を戻しますが、これで、もともと自家用車は持ったことがなく、配偶者(最近の世の中は、妻とか奥さんとか言ってはいけないらしいから配偶者とかいう無味乾燥な法律用語を使いますが、ええ、嫌味です。美しい奥さん、なんて言って何が悪いのでしょうか)の所有する自家用車の「運転手」で通しておりましたが、これで、自家用自転車も手放したことになります(自家用自転車は、必要で乗ってくれそうな知己に差し上げに、30キロメートルほど漕いで届けに行きました)。自分の管理するものを減らすということは、自分にとっては貴重な時間と能力をキープすることにつながります。家事は習慣化して、いちいちやる前に考えない(歯を磨く、風呂に入るのと同じレベルに習慣化)。髪をセットするのが面倒なので、高倉健や海老蔵、もしくは高校野球部員に戻ったと称して丸坊主にする。毎朝着る服を同じものに決めて出社する、家でも同じ服を2セット持って着回す、トレーニングウエアも統一する、そのように自分の興味のあまりない領域については、他者を不快にさせない程度に清潔に保てば、あとの時間や関心は、自分オリジナルに全振りできます。

そして、その都度考える。準備できているかいないか、そんなことは置いておいて、とにかく今ある現場で最高の、仮のパフォーマンスを出す。法律の勉強をしているのですが、憲法でおなじみ信教の自由でよく出てくる政教分離制度的保障の話で、ある国家の行為が宗教的行為か否か、合憲か違憲か、を判定するロジック(物差し)があります。これは、30年前は、「目的効果基準」という2段階のプロセスを踏むのが鉄板だったのですが、今はそんな迂遠なめんどくさいことはやらずに、バシッと一発で「総合考慮基準」というやつに置き換わっているのです。最高裁判例でそうなっているわけですから、より一層現場主義化が進んでいるというわけですね~。もう一つ法律で大きな同じ動きがあります。刑法の罪になるかならないか、という因果関係理論の話ですが、これは、30年前は行為と結果との間に「相当因果関係」があるかどうかで罪となるかならないかが決まる、鉄板の理論でした。しかしながら、その相当因果関係説を取るとどうしても罪にできない犯罪事象が大阪南港あたりで発生してしまい(やっぱり大阪人w)、そんで、困った最高裁判所は、相当因果関係説をぶん投げて捨てて、そして「危険の現実化」説を新しくぶち上げたわけです。もう、相当な因果関係なんてくそくらえ、潜在的に包含している隠れた危険はすべて、現実化しちゃったら罪にしちゃうぜベイベーってな感じで、こちらも、プロセスより現場の結果重視に思い切り舵を切ってますよね。そんな感じですので、準備やプロセスやお気持ちより、その場で示された、提示された今ある課題にどのように現場力を駆使して対処できるか、そういうのが大切な世の中になっているというわけです。

このように、無駄な思考も、散歩をしてある程度の時間を費やすことで得られるので、自家用自転車を捨てて散歩や公共機関での通勤通学外訪に切り替えられたことは良かったと思います。

あと一つ、もう少しポジションが上がった場合、「運転手付き社用車」をあてがわれるといった可能性がわずかながらあります。が、そのような地位にあっても、そのような「運転手付き社用車」は絶対に使わないようにしたいと考えています。だが断るというやつです。なぜかといいますと、わりと大きめの会合や政治資金パーティー(最近裏金問題ですくないけどw)とか、賀詞交歓会みたいな大きなシティホテルのイベントに行くと、こうした社長車会長車の群れがホテル階下を占拠し、そして当の会長や社長連中は、スマホや携帯電話をいじりながら、自分の黒塗りの車を目を凝らして呼んでいまか今かとまっている、そのような光景に出くわします。みんな同じ黒塗りのセダンなので、どれがどれだかわからないのです。わたしなどは、その中で、目立つんだから赤の軽のハイエースくらい用意したらいいじゃない、赤い彗星の会長車、みたいでかっこいいじゃんくらい思うのですが、どうもそのへんみなさんコンサバですよね。そんな人たちと車の群れを尻目に、わたしなどは自らの足でスタスタ出ていくわけですが、このようにわたしの価値観としては、できるだけモノは持たないほうがいいよね、という感覚があるわけです。そのほうが自由である。自由こそ最高の価値、自由万歳、ってやつです。思えば、行った高校も、入った大学も、唯一の校訓が「自由」でした。もちろん自由には責任を伴いますが、自分の足で歩けるという自由、自分の足で歩くと結構きつい、という不自由を甘んじて受ける自由は手放したくないなと改めて思いました。ノーモア社長車。

唐突ですがおわりますw