[00029]大和特攻

昭和20年4月7日 坊ノ岬沖海戦

令和6年4月7日に謹んで申し上げます。昭和20年4月7日、坊ノ岬沖海戦(ぼうのみさきおきかいせん)は、1945年(昭和20年)4月7日に沖縄へ海上特攻隊として向かった戦艦大和とその護衛艦艇をアメリカ海軍の空母艦載機部隊が攻撃した戦闘です。日本海軍が発動した天一号作戦の一環として第一遊撃部隊(第二艦隊のうち、第一航空戦隊の戦艦大和と第二水雷戦隊の軽巡洋艦1隻・駆逐艦8隻からなる)は沖縄方面に出撃、アメリカ海軍第58任務部隊がそれを迎撃しました。午後12時40分から約二時間におよぶ戦闘の結果、大和以下6隻が沈没。日本海軍の連合艦隊、大型水上艦による最後の攻撃となりました。
筆者の母方の祖母の下の弟は、この大和以下10隻の特攻部隊、軽巡矢矧に機関兵として座乗し、そして艦の底付近の巨大な機関室(エンジンルーム)で持ち場を全うして矢矧沈没とともに戦死しました。19歳でした。この水上特攻部隊に挑んだ海軍将兵7,000名余のうち、4,044名の生命が失われ、日本海軍は事実上壊滅しました。
沖縄に海上砲台として座礁し上陸の米軍に殴り込みをかける、その目的を果たせず中途にて沈没となったこと、沖縄の方々には誠に申し訳なく、謹んでお詫び申し上げます。
戦後、わたしの母方の祖母は、同じく宇佐海軍航空隊に(大学に行かずに)19歳で航空整備兵として志願着任し、終戦を迎えたわたしの祖父と一緒になり、母親が生まれました。つまり、わたしの中には、海軍艦隊と海軍航空隊のご先祖の記憶があるわけです。特に、祖父からは生前海軍の話や航空隊の話、もちろん鹿屋や知覧に見送った特攻飛行隊の面々の話や米軍グラマンの機銃掃射を受けた話などを聞いて育ちました。毎年、3月の硫黄島陥落から6月の沖縄戦終結までは特に心の重い期間になります。もちろん、8月の原爆投下と終戦も気持ちが良くないのは仕方ないところですが。
大和特攻は無駄だったのか?そのようには全く思っておりません。この戦艦大和は、日本の国名を冠したこの巨艦は、まさに四方の海を守る日本の守護神でありシンボルでした。軍艦マーチの歌には、御国の四方(よも)を守るべし、と歌われ、まさに日本人のよすがだったのです。この巨艦が、不沈艦と言われた大和が、乗組員3,333名を載せたまま轟音を立てて海の底に沈む、明治維新以来、必死で駆け上がって来た大日本帝國の75年の歴史が、この大東亜戦争でまさに閉じようとしているわけです。基準排水量6万5千トン。全長263メートル。世界最大にして最強の戦艦も、自らがわずか数年前に考案し、ハワイ真珠湾で実践してみせた航空機魚雷爆撃戦法にはなすすべもなく、左舷に10本以上の魚雷を受け、そして海の底に沈んだのです。
沈めたアメリカ軍にとっても、これは極めて重要な出来事であったと考えます。アメリカ軍にとっては、勝利は間近に見えたかもしれませんが、乗組員もろとも突っ込んでくる特攻機と合わせて、恐ろしいことこの上なかったと述懐されています。決して犬死になどではない、攻めたアメリカにも強烈な衝撃を与えた作戦だったと思っています。現に80年経とうとしても、こうして孫にあたる筆者などがこのように書くからです。4月7日は、そういう日です。戦ったご先祖様に敬礼。安らかにお眠り下さい。
過日台湾は台北を訪問させていただいた折、祖母の弟が大和特攻に従事したという話を聞いた現地の方々の居住まいがガラッと変わり、居住まいを正したのをこの目で見ました。
わたしの祖国は、日本と呼ばれる。
以上