【蛍】
「火垂るの墓」。上空にB29が出てくるこれは有名なプロット(物語の筋や骨格、全体を貫く世界観)ですが、これを反戦平和を訴えたものと解釈するのは違うと思っています。わたしの解釈は、そもそもこの無差別の非戦闘員都市への絨毯爆撃、これは戦争ですらなく、単なる殺戮、虐殺行為に過ぎないというものです。米国にわずかに残っていた騎士道精神、良心の欠片(かけら)すら失わしめた大量殺害兵器の登場とその実体実験に踏み切った悪魔の所業。わたしはそういう風にみています。自分でコントロールできないレベルの権力や武力を持った者がどのように振る舞うのか、それにふさわしい品位や人格をどのように磨くのか。人の価値は装備している武器の強さや持ってるカネの多さ、ましてや抱える手下や子分の多さでは決まりません。
わたしはこの映画を最初に見たときからうっすらとそのようなことを考えてきた少年でした。これも、実際に海軍整備兵として戦場に赴き、終戦直前には宇佐海軍航空隊で多くの特攻機を整備しそして見送った母方の祖父からいろんな話を聞いて育ち、そして多くの本を勧めてもらい、自分でできるだけ勉強して考えよ、意見はどのような相手とも堂々と戦わせよと教わったからだと思っています。それが教育というものだと思います。
じいちゃんは、その蔵書を晩年ほとんど公立図書館に寄贈し、平田文庫と呼ばれました。市役所の公務員だったので、そんな縁もあったのでしょう。ちなみに、じいちゃん自身は19歳で出征したたため、あれだけ本読んでた勉強家だったのに、ついに大学には行けませんでした。(私が多くの人に大学や大学院に行きなさいとしつこく迫る原体験は、ここから来ています)。
じいちゃんは、かの国にもこんなの恥ずかしいだろ、と思う多くの将兵がいたはず、と話していました。
わたしも全くそのとおりと思います。東京大空襲、沖縄戦、広島長崎の原爆投下。これらどれをとっても、戦争の名前にふさわしいとは思いません。特に、半端な副大統領からいきなり大統領となったトルーマンの原爆裁可は最悪でした。戦争とは、国家と国家が戦闘員を動員して、戦場を設定して行うものです。非戦闘員を大量破壊兵器で殺戮するのは、戦闘でも戦争でもありません。
では、おはようございます。
取り急ぎ以上