賢さは正義か

【賢さは正義か】
人間社会では、賢さは正義でしょうか。確かに、学校のテストでいい点を取るとか、ゲームで友達に勝つとか、仕事を効率的に片付けるとか、資格を取得するとか、賢さは何かと自分の生活に恩恵をもたらしてくれます。
時代を読んで将来有望な職業や会社を選ぶとなると、これはもう賢さの差が生活レベルを超えて、人生レベルの恩恵という大きな差となるかもしれません。
こうした、各種の「恩恵」を生み出す賢さが、自分のためだけでなく周囲の人たちの幸福のためにも使われるとより「価値」が高そうです。更に人類への貢献となると更に価値が高まるかもしれません。
それでは、人は賢ければ賢いほど良いものかと言うと、50年ほど生きてみると実際そんなに上手くいかないものかなと感じています。
少し論じてみましょう。
「賢さ」が「恩恵」という成果をもたらすまでの過程には、大きく2つのステップがあります。すなわち、①新しい知識を得ること、②その知識を上手く使うことというステップです。
これが自分や自分の影響力と理解の及ぶある程度周囲の範囲で完結されるものであればいいのですが、人類レベルとなるといくら賢くても、いや賢ければ賢いほど一人の人間の範囲で完結するのは難しくなってきます。
そして、この点で重要なのは、「知識を獲得する人」と「それを用いる人」が同じとは限らないということです。
わかりやすいところでいうと、ノーベル賞で有名なアルフレッド・ノーベルです。
彼は、爆発的なエネルギーを発する不安定で危険な物質である液体のニトログリセリンを、土に染み込ませてダイナマイトという固形で安全に取り扱う方法を確立しました。この賢さによって、人力だけでは途方もない時間や人数を要する石炭採掘などの工期を大幅に短縮できるという形で、人類に多大なる恩恵をもたらす発明をし巨万の富を得たのです。しかしこれが、別の人たちによって爆弾に転用され人を殺すためにも使われることで「死の商人」という不名誉な称号が与えられます。
それで、彼はいたくショックを受け、そのイメージを払拭するためにノーベル賞を創設したと言われています(もちろん、諸説あります、これは私の想像も入っています)。
原子爆弾の誕生に関わった物理学者、アインシュタインやオッペンハイマーも同様です。
ナチスドイツの原爆開発を恐れ、それならば先にとアメリカに研究を進言したのがアインシュタインです。アメリカの開発プロジェクト「マンハッタン計画」に主導的に関わったのがオッペンハイマーです。そして、ドイツが完成前に降伏してしまったため成り行きで日本への原爆投下が決まったとされています。被害の甚大さを知りこの2人の物理学者は大きな苦悩と後悔の日々を送ることとなります。アインシュタインは湯川秀樹博士を訪問した際に、オッペンハイマーは訪米した被爆者たちに面会した際にそれぞれ謝罪をしています。しかも涙を流しながらです。ちなみに広島と長崎への原爆投下を支持したトルーマン大統領は被爆者たちを目の前にして「これはアメリカが取った正当な行為だ」と言い放っています。小児麻痺で亡くなったルーズベルト大統領を継いで、副大統領から選挙も経ずに土壇場で大統領になったハリー・トルーマンについては、この原爆投下判断の一事をもって筆者は大嫌いですが、さすがにアメリカ国内からも酷評されています。
例えば、2代前の大統領だったハーバート・フーヴァーの「裏切られた自由」では、日本への原爆投下は「トルーマン大統領が人道に反して、日本に対して原爆を投下するように命じたことは、アメリカの政治家の質を疑わせるものである。日本は繰り返し和平を求める意向を示していた。これはアメリカの歴史において未曾有の残虐行為だった。アメリカ国民の良心を永遠に責むものである」と批判されています。
ノーベル、アインシュタイン、オッペンハイマーは疑いようもなく非常に賢い科学者ですが、人類に大きな恩恵と大きな損害の両方をもたらしました。
トルーマンをはじめとする戦争に関与した為政者は、賢い科学者たちによって獲得された知識を、大量の人間を殺すために使うことと引き換えに自国民の命と利益を守ったという意味で、賛否両論はあれど「賢い」ことには間違いないと思います。繰り返しますが大嫌いですが。
個人が人を殺すことは犯罪として誰もが認めるのに、戦争という名目で遥かに多くの人を殺すと逆に英雄にさえ見えるのは、人類がいかに賢くないかを証明しているかもしれません。
個人の利害を遥かに超越する影響力を発揮したという意味では、みんな共通して物凄く賢い人たちなのだと思いますが、意図したか否かは別として結果として多くの悲しみもセットで生み出しました。
ここで重要なのは、賢い研究者や技術者は「知りたい欲望」と「作りたい欲望」に抗えず行動し、賢い為政者はそれを「使いたい欲望」に従って行動したということです。場合によっては、その賢さを悪意と名誉欲を持って利用しようとする権力に抗えず行動せざるを得ないというケースもあるでしょうが、これも保身という名の自分の欲望ですね。
つまり、つまり大きな損失が潜んでいても見えなかった、または見えていたけど目をつぶったということであり、いずれも「自分の欲望」に「自分の賢さ」が負けて制御が効かなかったという点で共通しているのです。
賢さは大きければ大きいほど、わかることもできることも大きくなり、その影響する範囲も大きくなると同時に、行動に駆り立てる欲望も大きくなるということです。
そしてその行動結果と引き換えに、多くの人に恩恵がもたらされる一方で、多くの人を傷つけるという結果ももたらすことがあり、支持をする人としない人に人類を二分するというわけですね。
ほどほどの賢さは、使い方次第で自分とその周りという狭い影響範囲ではあるものの確実に恩恵をもたらすことが可能であり、これは正義となり得ます。
しかし賢すぎると、本人を含め「誰の認知も制御も及ばないエアポケット」が生み出され、それが時に人類レベルの広い影響範囲の大きな恩恵、または大きな損失、またはその両方をもたらし、正義に見える人と悪に見える人の両方を生み出す、というところでしょう。制御された「賢さ」を慎ましく身に着けたいものです。写真は当然、筆者が最も嫌いな外国人、ハリー・トルーマンその人です。
以上