事実認識と価値判断を分けて考えると頭が良くなるという話(2021/05/23)

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事実認識と価値判断

事実認識と価値判断は違います。違いますが、よくある間違いは、価値判断の方を事実認識の先に持っていこうとする人の(強い)論調です。もともと、人権だって男女平等だって不倫だって、価値判断の一つにすぎなのです。価値判断がかなり似通った人同士や、もっと大きな人の集団の中においては、価値判断ベースの話し合いがそれなりに盛り上がってなされることが多いのですが、たいてい、その価値判断とは真逆の価値判断を持つ人が紛れ込んでコミュニティが崩壊したり危殆に瀕したりします。たとえば、アニメや漫画を愛でる若い人たちの穏当なコミュニティがあったとして、とても穏やかに、かつ前向きで溌剌(はつらつ)な発言がなされていたとしても、そこに、「漫画やアニメを見ている奴はろくな人間にならない」「宮崎勤ガー」というような価値判断を持つおっさんやおばさんが乱入してきたら、それこそ蜘蛛の子を散らすようにそんな素敵なコミュニティも消滅してしまうでしょう。

価値判断の論争は不毛である

このように、立場の強い別の価値判断を持った者が乱入してくると、それまでのコミュニティは消滅し、そのコミュニティの場は、大人たちのお節介な説教の場になりかわります。FacebookというSNSツールが、どうしても若者に受けないのは、これはおっさんたちがウザいというより(それももちろんありますが)、おっさんたちが違った価値判断を振りかざして、いたいけな若者コミュニティを殊更に攻撃してくるからであり、自然な防衛本能として彼らは、大人の彼らが使いこなせない、煙幕を張った別のSNSツール、たとえば写真だらけのInstagramとか、匿名アカウント(裏垢)数十個のTwitterなどに潜んでゲリラ的なインターネット・コミュニケーション・ネットワーク環境を構築するのです。筆者のような偉そうな大人たちが、Facebookで偉そうな講釈を垂れている傍らで、まったく平行世界でこうしたネットワークで語られる内容は全く別の価値判断における話し合いや論考です。大人たちは、いったい若い人たちや子供たちがどういったコミュニケーションをとっているのかとても気になるのかもしれませんが、自分たちが子供だった時代にも、大多数はいちいち親世代に自分が何をやっているかの自己開示など行っていなかったと思うのです。ということで、価値判断同士で論争するのはお互いに得策ではありません。穏当でおすすめするのは、それぞれの価値判断(価値観)を尊重し、それはそれ、これはこれと認め合うことです。いいじゃないですか。おっさんツールと呼ばれても、Facebookはすでに大人たちが占拠しているのですから。ビヴァ!Facebook!!

事実ベースで話をしよう

反対に、価値判断を横において、事実ベースで話をすることはとても有益です。感染症予防優先なのか、オリンピック開催が絶対必要なのか、こうした価値判断ベースでの熱い論争は双方にとって極めて疲れるだけで不利益ですが、そもそも感染症がどの程度広がって、どれだけ直接的な感染症での死者が毎日出ていて、一方この感染症予防対策によってどれだけ経済的に困窮し、生きていく経済活動の他の自由を束縛され、自殺者が増え社会不安が増大しているか、こうした客観的な事実を把握したうえで、認識を共有したり自分の考えを述べたり他人の考えを聞いたりするようにするのが有益な議論というものです。インターネットの動画ばっかり見て!と娘さんに怒るお父様、あなたは幼少期にひょっとして、テレビばっかり見ていたのではないでしょうか。勉強しなさい!と息子さんに叫ぶお母様、あなたは幼少期からそうですね、高校生の時分くらいまで、勉強しなさいと言われて勉強する気になったことがあったでしょうか。このように、事実ベースで考えることは相手の理解や共感も得やすく、まわりまわって自分のためにもなると思います。

全部マックス・ウェーバーが教えてくれた

以上、価値判断は一旦横に置いて、事実ベースで考える、という奥義は決して筆者のオリジナルではなく、(筆者独断)世界偉人ランキング100位以内には必ず入るであろう、マックス・ウェーバーという思想家から教えてもらったものです。みなさんも、少しだけ考えに事実を入れることで、よりよい人生を歩んでいただければと願います。こちらからは以上です。

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