皇統二千年の秘密

聖徳太子こそ皇統二千年の礎である

聖徳太子は、神武以来の万世一系にあって、申し分のない血統を持ち、天才的な政治手腕を見せたものの、天皇として皇位に就くことは生涯ありませんでした。 伯母であるヌカタベノヒメミコが日本最古の女性天皇「推古天皇」に即位し、その皇太子となった人物です。 太子の事績は様々ありますが、ソフト面で言うと、何と言っても、現代に至るまでの日本の権力構造を決定し、皇統を現代まで存続たらしめた人物と言えるでしょう。 聖徳太子こそが、その後1600年の日本の方向性を決めた世俗と皇統を形作った大政治家だと思います。

日本人は権利や権力、権威についてキチンと学校で教わることが無く、国家権力という言葉に圧迫感を覚えるかも知れませんが、国家権力無くして、国民の権利が守られることはありません。 共産党独裁の中国や北朝鮮、中世絶対王政時代の欧州、ユーラシアの専制君主国などは、国家権力が個人の人権を制限する、というイメージに近いと思いますが、少なくとも日本を含む現代の先進国は、個々人の権利を守るために権力が存在すると考えるべきです。

基本的人権は天皇の章で始まる今の日本国憲法によって保証されていますが、逆を言えば日本国憲法が無ければ人権は守られないということになります。 権利・人権とは、神様が我々に与えてくれた普遍的な資格でも何でもなく、飽くまでも人と人のつながりである共同体が認めるからこそ、この世に存在し得るものです。 ですので、無人島に漂着したロビンソンクルーソーには、何の権利もありません。 何しろ権利を認めてくれる社会も無く、権利を主張する相手も、仲裁してくれる裁判所も無いのですから。

もっとも、一つの社会共同体の中に於いて、全ての人々の権利が同等な時代というのは、近世に至るまで訪れませんでした。 欧米で「国民国家」という概念が成立し、現実化する以前は、共同体、つまりは国家の中に於いて、各人が保有する権利に格差がありました。 認められる権利が異なる階級のことを「身分」と呼びます。

国民国家に於いて全ての国民に平等に認められている権利も、封建制や皇帝制の国家で身分ごとに異なる権利も、いずれにせよ国家や、国王、皇帝などが『お前に認められた権利はコレとコレで、逆にコレとコレの権利は認められていない』といった形でルール(法律)を定め、人々に強制しなければなりません。 この人々に特定のルールを強制する力のことを「権力」と呼びます。

もともと「権」という漢字には、(a)他人を支配できる力、更には、(b)他人に対し自己を主張する資格、といった意味があります。 権利も権力も、江戸末期に「right」や「power」という外来語が流入した際の造語ですが、それ以前の日本にも権利や権力といった概念はありました。そもそも人類の文明が始まって以来、政治とは各人の権利を如何にして権力で調整し、安定させるのか、という課題解決のための制度でした。 土地や水は自然の恵みですが、これを誰がどのように分かち合うのか、稲作はじめ農業が始まって以降、その種の利権争いが絶えた時期は無いでしょう。 誰が土地や水に関する権利を持つのか、どのように関係者を納得させるのか、その種の争いを治めるために「権力」が必要でした。

しかし同時に、如何なる政治体制であっても、権力者が権力を振るう時には、当事者たちの不満が少ないよう、『この人が決めたことだから仕方ない』と納得性のある「説明」「理由付け」或いは「言い訳」が必要になります。 人々が権力者を認める理由のことを「権威=authority」と呼びます。

たとえば中国は易姓革命の国ですが、皇帝を弑逆したものが新たな皇帝になる。 とは言え、その辺の一般人が皇帝に即位したとしても、その時点では権威も何もありません。 漢の劉邦にせよ、民の朱元璋にせよ、本当にその辺の単なる一個人でした。 それが戦乱を経て最終的な勝者となり、皇帝の座に上り詰めました。 権威付けのために、わざわざ劉邦は赤龍の子という物語を創作したりしたのです。

偉大なる初代皇帝や、聖なる初代国王の子孫であるだけで、人々は、その人物に、それなりの権威を感じてしまいます。 由緒正しい血統には、それなりの権威が備わるのが歴史的事実であり、人類史上最強の権威は血統と言えるでしょう。 君主国でありながら、血統がそれほど重視されなかったのは、古代ローマ帝国くらいでしょうか? 血統による権威は、永く続けば続くほど「伝統」という別の権威が加わり、うまく行く確率が高くなります。

纏めると『人々の権利を調整し、人々にルールを強制するには権力が必要だった。特定の人が権力を振るうためには、人々に納得させるための言い訳として権威が必要だった。そして権威とは、古代から由緒正しい血統であるケースが多かった。』ということです。

しかし如何なる権威があろうとも、権力者は、時として民衆から恨みを買い、打倒の対象となり得ます。 権力者が押し付けて来るルールや判断に不満を持った人々は、特に自分たちの生存に関わる(死活問題)場合には、間違いなく権力者の交替を求めます。 そして権力者は魅力的な地位に”見えます”。 という訳で権力者は、自分の権力を狙う挑戦者と、常に権力闘争をする運命にあります。 負ければ、どれだけ王家の血が濃かったとしても、THE ENDです。

特定の政策により、利益を得る人も居れば、害を被る人も居ます。 或いは獲得できる利益に差が生じることも、むしろ当り前です。 すべての人々を同じだけ得させる政策など有り得ません。

では、世界最古の伝統を紡ぎ続けて来た皇統は、常に万人を満足させるような利害調整をし、二千年以上もの間、権力闘争に勝ち続けて来たのでしょうか? 否! そんなことは無理です。

皇統が現代まで続いたのは、天皇が権力を持たなくなったからです。 現代でも今上陛下は世界最強の権威で在り続けていますが、政治的権力は全く持っていません。 つまり『岸田内閣を打倒せよ!』はあっても、『天皇を打倒せよ!』は有り得ません。 日本の皇統が二千年以上も続いているのは、天皇の権威と政治の権力者を分離したからに他なりません。 ここでやっと出て来ます、聖徳太子。

聖徳太子の天才たる所以は、権威を天皇に遺したまま、権力だけを分離したことにあります。

聖徳太子とは後世の諡(おくりな)であり、生前の御名前は厩戸皇子(うまやどのおうじ)です。 六世紀の仏教公伝の前後で、崇仏派の蘇我氏と、排仏派の物部氏が壮絶な政治闘争を繰り広げた時代を生きました。

欽明天皇は、宣化天皇の娘であるイシヒメ、また蘇我馬子の娘であるキタシヒメおよびオアネノキミと結婚し、其々、御子をもうけます。 イシヒメとの間の御子が第三十代敏達天皇、キタシヒメとの間の御子が第三十一代用明天皇と第三十三代推古天皇、オアネノキミとの間の御子が第三十二代崇峻天皇になります。 第三十一代から第三十三代まで、三代続いて蘇我稲目の孫が皇位継承したことから、蘇我氏の宮廷内での権力が強化されて行きました。 蘇我馬子から見たら甥と姪が、蘇我蝦夷から見ればイトコが、三代続いて皇位に就いたのですから当然の流れです。 また聖徳太子の両親共に、母型は蘇我氏の血を引いています。

蘇我馬子と物部守屋の争いは、仏教を巡る対立と別に、用明天皇の後継者争いという争点もありました。

蘇我側はハツセべノミコ、物部側はアナホベノミコを擁立します。 両者の争いは武力闘争に発展し、最終的に蘇我氏が勝利しますが、この時に蘇我側に付いて願をかけた聖徳太子が、勝利後に大阪市の四天王寺等の仏閣を建立します。 この蘇我氏勝利を受け、ハツセベが崇峻天皇として即位します。 ここで聖徳太子が権力と権威の分離に思い至る契機になったであろう大事件が勃発します。

崇峻天皇は、126代の皇統の歴史上、唯一、臣下から弑逆された天皇です。 崇峻天皇を暗殺したのは蘇我馬子と言われています。 権威と権力が同一の人物に集中していると、群臣や民衆に弑逆される可能性があると、聖徳太子が気づいたのでは無いでしょうか?

以上