任侠
【任侠】
任侠という言葉の語源から話を始めます。任侠(にんきょう)の語源は、古代中国で剣を帯びて徒党を結び、権威や法よりも私交における信義を重んじた人々を指す「侠(きょう)」です。「侠」は「協」に通じ、仲間を引き連れ助ける者を意味します。この気風を任侠と呼び、自律的な民間秩序の原理として生きつづきました。三国志や水滸伝、近代では軍閥の世界などは、国家の公的な法的秩序よりも、よほどかかる紐帯関係が重んじられ、守られている安心感があったというわけです。任侠の意味するところ、男の面目を立てとおし、信義を重んじること、弱者を助け強者をくじく気立てに富むことです。義のためならば命も惜しまないといった気性に富むことを指します。
日本では、かような徒党集団のことを、ヤクザと呼びました。ヤクザとは、893の略で、オイチョカブ「ヤクザ」のことです。賭博の「八九三のブタ」で、花札用語に由来していると言われています。花札の「オイチョカブ」という遊戯で、手札に8、9、3を持っている場合、見た目はススキ、菊、桜と派手ですが、合計すると20、すなわち一の位が零という、最弱の手札となります。見た目は派手だが何の役にも立たないものを「八九三物(やくざもの)」というようになったと言われたというわけです。
さて、場所を中国大陸から日本列島に移します。現在の神奈川県横須賀市(防衛大学校などがあります、日本の軍港のハシリです)で活動していた土木請負業である小泉組(こいずみぐみ)の話を致しましょう。小泉一家は明治時代に、口入れ屋家業から土木請負業の小泉組をつくりました。港湾都市から勃興した近代的なヤクザ組織の代表格としても知られています。
武蔵国久良岐郡六浦荘村大道(現在の神奈川県横浜市金沢区大道)のとび職であった、小泉由兵衛が明治初期、横須賀に移住し、海軍の軍艦に石炭、砲弾、食糧、労務者などを送り込む請負師となりました。フルネームで書くと面倒なので、この人を仮に小泉(0、ゼロ)としますね。
作家の宮崎学によると、明治17年(1884年)に海軍鎮守府が置かれ、軍港として急速に発展した横須賀では「軍艦に砲弾や燃料の石炭、食糧などを積み込む仲仕の組織が発達し、これを仕切る仲仕請負からやくざ組織が生まれていった」と云います。
当時の横須賀では目兼組の大親分と小泉組という新興組織が、沖仲仕の手配師として縄張りを競い合い、博徒たちのにぎやかな出入りがくり返されていたといいます。清水の次郎長と同じような話です。縄張り争いを制したのは、「近世以来の古い型の博徒」である目兼組を抑えた新興の小泉組であり、跡目を継いだ息子の小泉又次郎(小泉①)がこの帰趨を決定的にしました。宮崎は小泉組について、「吉田磯吉と同じ時期、同じ環境から生まれてきた近代ヤクザのひとつにほかならない」と述べています。要するに鎌倉時代末期、兄弟平等相続で細切れに領地が分割され尽くして挙句に仕方なく始めた「長子一括相続」からあぶれた次男三男以下が、路頭に迷って野良武士となり略奪暴虐の限りを尽くしたかの「悪党」と同じような社会のゴミ…の犯罪組織集団、けれども暴力に裏打ちされた強力な集団が成立したわけです。歴史を紐解けば、悪党の誉れの高い楠木正成が、後醍醐天皇に見出されて活躍し、皇室の盾となり守護神となったように、かような暴力集団も、一気に世に出る機会が訪れることがあります。小泉又次郎(小泉①)は、壮士の群に入りピストルを懐にしては暴れ回り、三浦政界を馳駆していました。彼は、勢いに任せて1887年(明治20年)、立憲改進党に入党。政治の世界にも入り込みます。1907年(明治40年)横須賀市会議員に当選、その人望と行動力、何より暴力をちらつかせた影響力により後に議長をつとめます。神奈川県会議員を経て、1908年(明治41年)衆議院議員選挙に立候補して初当選、以来戦後の公職追放となるまで連続当選12回、通算38年間の代議士生活を過ごすというわけです。政治家として本領を発揮して本懐を遂げた又次郎は「野人の又さん」としてその名を轟(とどろ)かせます。大臣としては逓信大臣を務めました。つまり、任侠ヤクザが大臣になりおおせたわけです。これが小泉①です。以下、「単に①」も略します。さて、この①の娘と結婚してこの家の名跡を継いだのが、小泉純也です(②)。②は防衛庁長官(現在は、防衛大臣、ですが、当時は防衛庁、であり庁の代表は「長官」と言われましたが、まあ大臣といっていいでしょう)です。そして、もともと軍港であった横須賀に強力な政治家利権を獲得していくのです。そして、②の息子がみなさんもご存じ、小泉純一郎(③)です。
平成十三年(2003年)三月十三日に行われた自民党党大会において、森首相の口から自らの出処進退に関する発言が出たことで、党内は総裁選挙に向けて動き出しました。真っ先にポスト森に手を挙げたのが小泉純一郎氏でした。小泉③氏にとって総裁選への立候補は三度目でした。続いて橋本龍太郎元首相が再登板に意欲を見せ、さらに亀井静香政調会長、麻生太郎経済財政担当相(麻生太郎氏は、元首相、吉田茂の孫です。ここにも貴種がいます。ご本人はクレー射撃でオリンピックにも出場しています)も相次いで出馬を表明します。大きな焦点は景気対策と財政構造改革への取り組みに加え、特に世論からの関心を集めたのが党改革でした。
KSD事件、外務省機密費流用事件によって国民の政治、行政不信が高まっていました。そのため、党内でも強い危機感が出始め、全国の都道府県連からも「開かれた総裁選」を求める声が上がりました。
その結果、党大会に代わる両院議員総会における総裁選挙での都道府県連の持ち票が、これまでの一票から三票に拡大されました。
四月二十四日、党大会に代わる両院議員総会における総裁選が行われました。小泉純一郎氏は過半数を上回る二百九十八票を獲得し、橋本氏の百五十五票、麻生氏の三十一票を大きく引き離して第二十代総裁に選出されました。(亀井氏は立候補を辞退)二十六日、第一次小泉内閣が発足します。その後、小泉③は、5年半の長きにわたり内閣総理大臣と務めます。ゼロ代目は完ぺきなフル規格の任侠ヤクザ(社会のゴミ…暴力犯罪集団)だった小泉家は、政治家3代目にして、ついに首相にまで上り詰めたというわけです。
ちなみに、小泉③は、組閣も極めて異例でした。小泉首相は、派閥の意向にとらわれず、適材適所に徹した人事を断行します。女性閣僚は過去最高の五人、民間からは慶應義塾大学の竹中平蔵教授を経済財政政策担当相に、文化庁の遠山敦子元長官を文科相に抜擢しました。若手の登用も目立ちました。一方で森前内閣から七閣僚を留任させ、実務重視の手堅さも見せました。
さて、令和六年の自民党総裁選です。もはや日本国中で知らないものはいない、小泉進次郎(④)。アメリカ留学で箔をつけた彼は、帰国後、父親の秘書となります。進次郎は尊敬する人物として父・小泉純一郎をあげています。だいぶ変人だった父・純一郎に比べて、「まっすぐな目を向け、丁寧に礼儀正しく人の話をよく聞く。欠点の少ない小泉純一郎」(筆者官僚友人)「地元のイベントに積極的に出てくれる、子供や女性の支持は絶大」(筆者政治家友人)と彼を見る向きも少なくない。云わば「(個人の能力は別にして)貴種であり如才ない首相の息子」への贔屓目が、彼への注目を支えています。日本人は、こういう貴種への憧憬というか判官びいきというか、そういうのが古来より大好きなのです。
小泉家にとっても、政治家はもはや家業であります。①曾祖父・又次郎(元逓信大臣)、②純也(元防衛庁長官)、③純一郎(元首相)と続き、政治家の系譜は④進次郎で四代目にあたります。父・純一郎は姉・信子を公設秘書、弟・正也を私設秘書として雇い、政治家の収入で小泉家を支えていたということです。任侠ヤクザはいつしか上書きしてなかったもの、ということになり、その家業は廃業せざるを得なかった以上、兼業できない政治家一族として、何よりも世間と選挙区有権者の耳目を集めて至高の地位に上り詰める、その渇望と血の力が四代目の多忙な日常を支えているといって過言ではありません。
今回の自民党総裁選2024、同党の最終兵器といえるこの方を、他の候補がどう攻略するのかできるのか、そこが最大唯一の争点だと、筆者は思っています。
筆者も小泉④とは数十センチの至近距離で目と目で「会話」したことがあります。わずか数秒でしたが、その瞳には吸い込まれそうな強烈な魅力がありました。これが貴種と庶民の人間の違いか、と吃愕したことを昨日のことのように思い出します。
全て筆者個人の見解でありますこと、重ねて付記いたします。
以上