フィンランドと日本の国交樹立100周年に寄せて激アツのフィンランドという国の歴史を紹介します!(前半)(2019/11/30)

おはようございます。

2019年11月も押し迫った月末の最後の配信記事です。

本日は、フィンランドと日本の国交樹立100周年(1919年−2019年)に寄せて、激アツのフィンランドという国の歴史を紹介します。

この記事を読み終えれば、フィンランドという国の人々の熱意と根性と不屈の闘志と、それから日本に対して向けてくれている好意的な眼差しがわかると思います。

お互い地球のほぼ反対側にある国々同士ながら、どうしてこれほどまでにフィンランドの人たちは、我々日本という国にシンパシーを感じて、寄り添ってくれるのか、それをたどるには、この国のそもそもの成り立ちから現在に至るまでの歴史をざっとおさらいする必要がございます。

ほとんどの日本人が知らない、世界にあまたあります親日国の一つ、北欧フィンランドの物語です。

フィンランドは、「フィン人の国」という意味で、「スオミ」はそのフィン人の自称です。

「スオミ」の語源については多くの説が提唱されており定説はありませんが、現在「スオミ」は、フィンランド語で「湖沼・沼地」を表す単語「スオ」(suo)に由来すると言われています。

文字通り、白夜と湖と沼地と森が広がる、とても美しい大地です。

フィンランドは、もともと旧石器時代から人が居住していたようです。

南には農業や航海を生業とするフィン人が居住し、のちにトナカイの放牧狩猟をするサーミ人が、北方に生活を営むようになりました。

そのうちに、1155年にはヴァイキングの子孫である、スウェーデン王エーリク9世が北方十字軍の名のもとフィンランドを征服し、同時にキリスト教を広めました。

1323年までにはスウェーデンによるフィンランド支配は完了し、正教会のノブゴロド公国との間で国境線が画定したことで、名実ともにスウェーデン領となります。

そこから、長いフィンランド独立運動が始まり、一定の成果として、1581年にフィンランドの独立が模索された結果、ヨハン3世が「フィンランドおよびカレリア大公」(のちにフィンランド大公となった)となり、スウェーデン王国が宗主国となる形で「フィンランド公国」の建国が宣言されます。

王国でも共和国でもなく、大公国、という一段格下げの形ではありますが、ようやく自らの「国」を持つことができたのです。

しかし、国といっても外形的なものに過ぎず、スウェーデンを宗主国とする「帝国」の一部であるに過ぎませんでした。

それから、時は流れて1700年に始まった、スウェーデンとロシアという、北方の大国が天下分け目の戦いを演じた「大北方戦争」の結果結ばれた、1721年のニスタット条約で、フィンランドの一部(カレリア地方)がロシア帝国に割譲されました。

そして、ロシア帝国のアレクサンドル1世はかの地(カレリア)に、改めて1809年にフィンランド大公国の建国を宣言し(昔は公国だったのが大公国に格上げ)、自らが「フィンランド大公」を兼任することになりました。

こうして、ここから、フィンランド人たちの、ロシア帝国→「史上最悪の共産主義革命という社会実験場(筆者命名)」ソヴィエト社会主義共和国連邦からの圧政と攻撃に長く耐えつづけるという苦難の歴史が始まります。

そんな折、フィンランドの人々を勇気付けた数少ないことがらの一つに、1904年に、極東の小国、大日本帝国が、ロシア帝国と国土の存亡をかけた戦争を仕掛けるという事件が起こります。

日露戦争(1904年-1905年)です。

それを遠因として、ロシア革命が起こり、帝政ロシアは崩壊し、代わって共産主義革命によるソヴィエト社会主義共和国連邦(以下単にソ連)が成立し、その混乱に乗じる形で第一次世界大戦末期の1917年にはフィンランド領邦議会は独立を宣言するのです。

日本との国交樹立はそのわずか2年後の1919年、以来100年にわたり、フィンランドと日本は、仲良くやってきたのです。

その後、フィンランド内では親ソのフィンランド共産党による赤軍と、自由主義経済を主張する共和国軍(白軍)による内戦状態となりますが、間もなくフィンランド南部で優勢だった赤軍は稀代の用兵家である軍人マンネルヘイムによって鎮圧され、1919年にフィンランド共和国は共和国憲法を制定して名実ともに独立したのです。

さっくりと、フィンランドの歴史上で最も尊敬される人(2000年同国調査)であるカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムが出てきたので補足しておきますと、この人は、もともと士官候補生としてロシア帝国陸軍に入隊し、日露戦争などで実績を積み将軍となりました。

そして、第一次世界大戦中にフィンランドが独立すると、その後の混乱から起こったフィンランド内戦で白軍総指揮官に就任し、内戦を勝利に導くと、国防軍最高司令官(元帥)に推挙されたのです。

もう一人、同じくフィンランドの歴史上で二番目に尊敬される人(同上調査)であるリスト・ヘイッキ・リュティを紹介します。

こちらは、そんな独立を成し遂げたばかりのフィンランドに次々とふりかかる災厄を、その万能の政治力で跳ね除け続けた、弁護士であり銀行家、そして伝説の政治家です。

1939年、第二次世界大戦が勃発する前夜、突然ナチスドイツとソ連との独ソ不可侵条約が締結され、世界を驚かせることになりますが、この表の条約と同時に結ばれた裏の条約(モロトフ=リッベントロップ協定、秘密議定書)には、公表された条文である「相互不可侵および中立義務」という素敵な平和っぽい文言にはない恐ろしい企みが含まれていました。

すなわち、これは東ヨーロッパとフィンランドをドイツとソ連の勢力範囲に分け、相互の権益を尊重しつつ、相手国の進出を承認するというものであり、すなわち、①独ソ両国によるポーランドへの侵攻、②ソ連によるバルト諸国併合、③フィンランドに対する侵略戦争(冬戦争)、④ソ連によるルーマニア領ベッサラビアの割譲要求、といった災厄を撒き散らすものであったのです。

これらの侵略行為は、公然とこの秘密議定書による黙認の元行われ、これに伴いイギリスとフランスによるドイツへの宣戦布告を招いて第二次世界大戦が引き起こされたのです。

この戦争を引き起こした本当の当事者は、ナチスドイツだけではなく、本当は2国いて、その一方のソヴィエト社会主義共和国連邦という、15もの共和国の共和国を併呑した「国」は、なんと大戦終結時には「戦勝国=連合国」の側にいるという、世界史史上稀に見る「お前がそれを言う」という状況になるのですが、それは別の機会に譲りまして、お話をフィンランドに戻します。

フィンランドでは、このように大国ナチスドイツとソヴィエトによって生贄にさせられたわけで、どの国の援助もないままソヴィエトに踏み潰されるかとみられました。

そこに立ちはだかったのが、当時の大統領であったリスト・リュティと、国防軍最高司令官であるマンネルヘイム元帥でありました。

リスト大統領は予備役となって慈善活動をしながら世界中を歴訪しているマンネルヘイムに祖国の危機であると説いて最高司令官就任を打診(懇願)します。

マンネルヘイム(リストより年上)でなければフィンランドを守ることはできないことをリストは知っていたのです。

マンネルヘイム元帥が最高司令官に就いてすぐ出した最初の命令が胸を打ちます。

大統領は1939年11月30日をもって私をフィンランド軍の最高司令官に任命した。勇敢なるフィンランドの兵士諸君!私がこの職に就いた今、我々の不倶戴天の敵が再びわが国を侵している。まずは自らの司令官を信頼せよ。諸君は私を知っているし私も諸君を知っている。階級を問わず皆がその本分の達成のためであれば死を厭わないことも知っている。この戦争は我々の独立の継続のため以外の何者でもない。我々は我々の家を、信念を、国を守るために戦うのだ。

怒涛のごとく侵攻してくるソヴィエト軍を、その湖、沼、凍った湖上や森の中といった地形を十分に利用し、敵の戦車軍団を撹乱し、分離し、包囲し殲滅し、そしてじりじりと後退しながらも戦線(マンネルヘイム線(注1))を維持し、フィンランド本土へのソヴィエト軍の本格的侵入を許しませんでした。

(注1)マンネルヘイム線とは、ソ連軍の侵攻に対抗するためフィンランド軍がラドガ湖とフィンランド湾の間のカレリア地峡(現在はロシア領)に長さ135km、幅90kmに亘り築いた防衛線であり、軍事上の最重要拠点、戦線となりました。

フィンランドの必死の抵抗、そしてフィンランドの国際連盟への提訴によるソヴィエトの国際連盟からの追放など、必死の政治工作による国際世論はフィンランドに同情的であったところを冷静に見極めたリスト大統領が、誠に不利な条件ながらもソ連と講和するときにそれを最も支持したのがマンネルヘイムであり、二人は強い信頼関係に結ばれていたのです。

冬戦争によってソ連に割譲したフィンランド国土(Wikipediaより)

政事と軍事を完全に分けて、軍事を政事の一つとして完璧に従属せしむる。

このことひとつを見ても、マンネルヘイム元帥の大局観と戦略眼、立ち位置について驚嘆を禁じ得ません。

冬戦争は、リスト大統領の決断による電撃的講和により終結しました。

しかしながら、その傷も癒える間もなく、冬戦争からさらに衝撃の、フィンランドにとって国家存亡の危機となる国難が、襲いかかります。

ナチスドイツのヒトラーが、突如、独ソ不可侵条約を破棄し、ソ連へ侵攻するのです。

これによって、ソ連との対抗上ドイツとの関係を深めざるを得なかったフィンランドには、さらに難しい、厳しい状況が襲うのです…。

話が終わらなそうですので、いつもは1記事一つの話題なのですが、続きは次回にします。

次回を読みたいと思われる方、もうしばらく、(他の記事などお読みになりながら)お待ちください。

最後に、マンネルヘイムが最高司令官に就任したのは1939年11月30日、すなわち80年前の本日なのです。

本日のこちらからの記事は以上です(後半へ続く!)。

(2019年11月30日 土曜日)

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