フィンランドと日本の国交樹立100周年に寄せて激アツのフィンランドという国の歴史を紹介します!(後半)(2019/12/01)
熱した石に水をかけて水蒸気を発生させるフィンランドのサウナ、ロウリュ(löyly) |
おはようございます。
昨日(2019/11/30付記事)では、フィンランド建国から第二次世界大戦におけるソ連からの侵攻を防いだ冬戦争、その講和条約締結までを一気に書きましたが、その後もさらに大きな苦難がフィンランドを襲います。
ここから読み始めた読者の皆様に、まずおさらいでざっくりとお話ししますと、フィンランドは、もともとフィン人、自らをスオミと呼ぶ人々が定住していましたが、最初は西のスウェーデン王国に領有され、そしてスウェーデンになり変わる形で北欧の雄になったロシア帝国の実質属国として割譲され、そうしてずっと雌伏の時を過ごしながら、独立の機会をうかがってきました。
そうして、帝政ロシアがロシア革命によって滅んだ1917年、第一次世界大戦のどさくさに紛れて独立を宣言、1919年にはいち早く日本と国交を樹立するなど水際立った動きを見せます。
もちろん、日露戦争(1904-1905年)で帝政ロシアとガチンコで満洲の荒野で、そして日本海で、この超大国と相対した東の極東の小国、大日本帝国に対するシンパシーがなせるわざです。
こうして、フィンランドと日本の友誼は、世界の激動の歴史の中にあって、現在の2019年、100年にわたって続くのです。
素晴らしいことだとは思いませんか。
第二次世界大戦、なかんずく太平洋戦争以後の世界の仕組みによって語られる歴史において、日本とフィンランドとの関係性については、ことさらに無視されている嫌いがあります。
これは、なぜか中立条約を破って日本に攻め入ってきていながら戦勝国=連合国入りするという、ソ連の狡猾な外交手段に翻弄された、我が国の国際政治上の大きな失点なのですが、歴史をできるだけ衡平に見るのであれば、「自分たちのことは自分たちで決める」という、国家と民族自決の原則に沿って、戦ったフィンランドの人々のことを私たち日本人も、もっとよく知るべきなのです。
さて、独立後すぐにソ連からの圧迫を受けた冬戦争は、なんとか不利な条件での講和で妥結しました。
しかしながら、さらに苦難が襲います。
独ソ中立条約を締結していたナチスのヒトラーが、突然ソ連に宣戦布告し、東方へ攻め入ったのです(バルバロッサ作戦)。
これがソ連の逆鱗に触れることになります。
当初は優勢だったドイツ軍ですが、ロシアの寒波、冬将軍の前に前進は阻まれ、そこをソ連軍の厳冬期でも動く頑丈な機甲部隊での反撃を受けることになります。
ロシア帝国、そしてその後継国家であるソ連と対抗するという、「行きがかり」上ドイツを盟主とする枢軸国に入らざるを得なかったフィンランドも、ここから猛烈なソ連の侵攻を受けることになるのです。
枢軸国の一員として、ドイツの援助を受けられなくなるという危機をうまく回避しながら、ソ連の恨みをできるだけ買わずに、例えばソ連第二の都市であるレニングラード(当時の名称、現在はサンクトペテルブルク)の包囲戦にはフィンランド軍は参加を辞退するといった、綱渡りの外交交渉を続けながら、第二次世界大戦を「継続戦争」としてフィンランドは戦います。
一時は、フィンランドの強兵たちは、冬戦争で蹂躙されたソ連に対抗し、ナチス・ドイツやイタリア王国、そして日本などの枢軸国側の一員として勇敢に戦い、そして一時は冬戦争前の領土を回復するまでに至ります。
しかしながら、その後、ソ連軍の反攻によって押し戻され、そしてフィンランドの防衛戦が突破される可能性が日に日に高まる中、フィンランド国軍の消耗度は実に90%を超え、これ以上戦争を継続することができなくなります。
その時、ついにこの機を逃さずリスト大統領は決断し動きます。
枢軸国を抜け出し、一国だけ連合国との分離単独講和を行うのです。
そして、それは、特にナチスドイツに対する重大な背信行為として、ナチスドイツ、ヒトラーの逆鱗に触れることでもありました。
しかし、リストは、これまでのドイツからの武器援助や条約すべてについて、リスト個人で署名しており、責任を取って大統領を辞して後任をマンネルヘイム元帥に委ねる、という秘策を持って事態に対処します。
つまり、ナチスドイツに協力した戦争犯罪人として死刑になることも厭わず、今がフィンランドの生き残る最後のチャンスだということをわかっていたリスト・リュティは、堂々と、ナチスドイツをペテンにかけ、ナチスとの共闘はあくまで個人的な過ちという体裁で、連合国(主にソ連)との分離単独講和を実現するのです。
もちろん、その(個人としての)責任を取り、大統領を辞任し、ソ連をはじめとする連合国から戦争犯罪人として収監されることは覚悟の上でした。
この秘策を披露するにあたり、押しとどめるマンネルヘイムほかの幹部に対し、フィンランド大統領のリスト・リュティは、ゆっくりと、
「大統領官邸にあっても、牢獄の中にあっても、私の政治家としての志は、決して変わらない。」
という凄い台詞を残して、きっちりと、自らを使い捨てにしてフィンランドの未来の道筋をつけました。
その志を受けたマンネルヘイムは、今度は元帥・最高司令官としてではなくリスト・リュティの志を継いだフィンランド大統領として、フィンランドの未来のために奔走します。
1944年から1946年にかけて第6代大統領となり、ラップランド戦争でナチス・ドイツと戦い、ソ連との難しい講和を成し遂げ、フィンランドの独立を保ちました。
そうして、病を得て、亡くなるのです。
享年83歳。
フィンランドの人々は国葬をもって彼の献身に報いました。
その歴史をスオミの人々はきっちりと自国で教え続けた結果、2000年のフィンランド国内の調査においてマンネルヘイムはフィンランドで最も偉大な人物として選ばれています。
最後にリスト・リュティについて。
マンネルヘイム大統領が率いた「フィンランド新政権」は前大統領のリスト・リュティの「プラン」通り、「親独(ナチス)路線はリスト・リュティ個人の方針であり、責任もリュティ個人にある」と戦争責任を全てリスト・リュティに転嫁し国としての訴追を逃げ切る作戦をとります。
戦後、リスト・リュティは戦時中ナチスドイツに加担したとして「戦争犯罪人」として連合国に訴追され、1946年に禁錮10年の判決を受けます。
健康を害して1949年に釈放されますが、以後は政界に復帰することはなく静かな隠遁生活を送り、1956年にひっそりと死去しました。
しかしながら、本当のことを知っていたフィンランドの人たちは、その死に際して、ソ連を中心とした戦勝国=連合国の猛烈な反対にもかかわらず、マンネルヘイムと同じ国葬をもって、その死を悼み、見送ったのです。
人口550万人(2018年現在)、実に北海道と同じくらいの人口しかいない、北の大地の勇敢な人々の物語は、その後のソ連衛星国としての苦難が続きながらも、マンネルヘイムやリスト・リュティの敷いた未来への道を堂々と歩んだ結果、バルト三国のようにソ連へ併合されたり、ソ連に占領された東ヨーロッパ諸国(東側諸国)のように完全な衛星国化や社会主義化をされたりすることなく、冷戦終結による東欧革命の暴風が吹き荒れる中でも、その微妙かつ絶妙な国家運営と舵取りのもと、2019年の現在に至るまで独立と平和を維持し、堂々と国際社会上において名誉ある地位を占めているのです。
フィンランドといえば、サンタクロース、ムーミン、そしてサウナ。
携帯電話のノキアをはじめとするIT産業やゲーム産業が勃興する、首都のヘルシンキと福岡には、なんと直行便が飛んでいます。
そして、首都ヘルシンキの姉妹都市には、なんとロシア第二の都市サンクトペテルブルク(旧名レニングラード)が含まれているのです。
このしたたかな国際政治感覚、脱帽の一言です。
みなさん、是非一度、遠くて本当は近い国、フィンランドに行きましょう。
こちらからは以上です。
(2019年12月1日 日曜日)
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