日本史上に輝く類まれなる女性

凄い女性の話

おはようございます。

偉人人物伝を書くのが大好きな筆者ですが、今日は太古の卑弥呼や奈良時代の持統天皇に続く、もしかしたらこの人らと匹敵しさらに上回るかもしれない、スゴい人をご紹介します。

令和の現代は、ウィキペディアという非常に便利なオンライン百科事典がありますので、その力を借りて以下、叙述します。

この人はだれでしょう。

(放映終了してしまった「アタック25」の最後の問題風に)

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1985年(昭和60年)6月、彼女はハーバード大学を卒業する。専攻は数理経済学。卒業論文『External Adjustment to Import Price Shocks : Oil in Japanese Trade(輸入価格ショックに対する外的調節:日本の貿易における石油)』。成績優秀な学生に贈られる「Magna Cum Laude(マグナ・クム・ラウデ、優等賞)」を受賞した。1985年(昭和60年)の卒業生は大学全体で1681人であり、「マグナ・クム・ラウデ」を受賞した学生は全学年を合わせて55人、彼女が在籍した経済学部では3人だった。卒業論文の指導教官だったジェフリー・サックス(理論経済学者)は、「卒論のテーマは、70年代と80年代のオイルショック後の日本の貿易政策で、輸出を増やし石油を輸入した日本のやり方を分析した。彼女のコンピューター分析は、特に学部生としては高度なものだった。夜遅くまでコンピューターにかかりきりだった姿は忘れません」といった評価をした。また、指導したエズラ・ファイヴェル・ヴォーゲル教授(『ジャパン・アズ・ナンバーワン』著者)は、「彼女は非常にプロフェッショナルな意識が強い女性で、よく勉強しました」と評している。

1986年(昭和61年)、米国から帰国後の4月に東京大学法学部第3類(政治コース)の3学年に外部学士入学する。100名中3名の合格であった。彼女はこの事を振り返り、「米国に残ったら根無し草になってしまうような気がして日本に帰りたかった」と語っている。東大在学中の学友には工藤雪枝などがいる。

父親が外交官(事務次官)、また駐スウェーデン特命全権大使・村角泰の娘が外交官になったことに刺激を受けて外交官を志し、同年10月に外務公務員上級採用I種試験(外交官試験)に合格し、外務省入省が決まる。合格者は28名でうち女性は3名であった。渋谷区広尾の公務員官舎に居住し始める。

1987年(昭和62年)に東京大学を中途退学し、外務省に入省。「経済局国際機関第二課」に配属された。この頃から東京都目黒区南にある二世帯住宅に居住し始める。

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正解は、小和田雅子さん。

現、皇后陛下。

雅子さまは皇太子徳仁親王(当時)との婚約内定後、皇太子妃、そして令和の御代に皇后となられました。

ウィキペディア的に正確に記しますと、お名前は雅子(まさこ、1963年〈昭和38年〉12月9日 – )。日本の第126代天皇・徳仁の皇后(在位:2019年〈令和元年〉5月1日 – )。皇族。元外交官・外務官僚。お印はハマナス。敬称は陛下。勲等は勲一等。となります。

義理の妹が自分の子供(男児)を無理やり筑波大学附属高校から東京大学に進学させよう、しかも一般入試ではない裏口特待入学制度を創設してまでそのようなことを行おうとしている中、「自分で頑張り道を切り拓く」方の輝きが対比されるのはとても興味深いものです。

間違いなく、そのまま外務省に残っていてもかなり活躍された方でしょう。皇室や宮内庁は、そこを受け止められなかったのかもしれません。当時の皇太子殿下(現天皇陛下)が異例の人格否定があった旨のご発言に及んだことは特記しておきます。

この点、皇室に入りたくて入りたくて仕方がなくって本懐を遂げた感のあるキコさまとは違います。そして、キコさまは皇后陛下に何かしら勝とうと頑張りましたけど、やはり地金が出てしまったという感じです。

無理してトーダイなんか行かせて大丈夫かなと思います。

臣下の大学の枠は、草莽の下郎枠としてあけておいた方がよろしいかと思います。

以上