日本人は何処から来て日本国ができたのかという根本的なところを考察します(2016/10/23)

筑紫は国のまぼろば









おはようございます。


2016年10月の日本国の歴史に関する想像に基づくブログ配信記事です。


我々は現在自分の国を日本(にっぽん、にほん)もしくは日本国と呼びます。

しかし、またこの国が昔「倭」「倭国」と呼ばれていたことも知っています。

それでは、倭=日本なのでしょうか。

実はそうではないのではないかという説があります。

控えめに申し上げておりますが、筆者の中ではもっと強く別物であると推測しています。

これまでは、倭を和と読み替え、大和としてこれをヤマトと呼ばせて、ヤマト政権に遷移させて日本につなげるという無理やりな解釈をとってきたのですが、そもそも倭を和に読み替えるなどというのが現代人の想像に過ぎず無理があると思います。

日本人が自らを日本人と呼ぶようになるそれ以前は外から何と呼ばれていたのでしょうか。

中国の歴史書には日本と呼ばれる前は倭国と呼ばれていたから、今の日本人の先祖が単純に「倭人」と呼ばれていたと言い切ってよいのでしょうか。

2,000年前の(あくまで地理的な今の)日本列島には倭国があり倭人がいたと中国の史書は記録しています。

そして断続的に中国の歴史書は王朝が変われど日本列島にあった倭国について、その情勢や文化風習や国の状況について記しています。

倭の五王という五人の歴代の王がいて、それぞれ中国の朝廷に王として認められるように朝貢して運動して、最後の5人目の倭王「武」においては、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」なる仰々しい称号を賜った、などという記録が残っています。

しかしながら、我々の直接の先祖である「日本国」の最初の歴史書だと自ら宣言した「古事記」「日本書紀」にはそれらに対応する「倭国」に関する記述がほとんどないのです。

いきなり最初の天地創造から「日本」で始まります。

不自然なのです。

この状況は何を意味しているのでしょうか。

これは冷静に考えればすぐに感覚的に納得できるはずのものだったのに、これまでの1,000年以上経った子孫である我々「日本人」にはできなかったようです。

「倭国」は「日本」とは別の国であるということを。

同じ日本列島に存在はしていても。

「古事記」「日本書紀」は確かに日本人によって発案企画され、8世紀初頭に完成したものですが、中国人による中国正史の「倭国」については後漢の時代から書かれてきたものでずっと古いものです。

古事記」「日本書紀」に書かれた内容や国のあり方が、中国の正史である歴史書に書かれたものと同じであるという証拠など実はないのです。

不思議なことに日本人の多くはその内容の大きな相違(書いた者たちの意図)を斟酌することができず、ここに書かれていることは日本列島内の同じ国や民族のことだとして、何らの違和感も持っていないようです。

もし中国が日本列島の国々について記録していなかったとしたら、日本の歴史は「古事記」「日本書紀」をはじめとしてそこから語られることになったはずです。

つまり、文献資料としての邪馬臺国もなければ卑弥呼も登場しません。

結果、このような論争も起こらずに済んだのかもしれませんが、国としての真実の歴史が闇の中に消えてしまったことになります。

本当に「倭国」から「日本国」に発展した人たちのつながった歴史だったのなら、はたして自らの歴史の一部ををわざわざ闇の中に葬るなど考えられないのです。

意図的に「断絶」させています。

もしくは、倭国の歴史も日本国の歴史に紛れ込ませて(上代にわたって)付け足しているのです。

このように、「倭国」をことさら無視する「日本国」側の事情は何かと考えるに、663年の大事件である、朝鮮半島で起こった白村江(はくすきのえ)の戦いがポイントのようです。

ここに、大海戦及び陸戦が行われ、唐と新羅が勝利し、百済と倭国が負けたのです。

その後、新羅と唐の連合軍の軍隊が、太宰府に進駐し、「筑紫都督府」という機関が設置されていたようなことが、日本書紀にもさらりと記されています。

削除し忘れたのか、適当に匂わせるように残したのか、それとも意図などないのか、それはわかりませんが、とにかく大戦争のあとにさらりと唐や新羅の軍隊が物見遊山に九州の筑紫にやってくることはないでしょう。

そして、その後間も無く唐と新羅で高句麗を共同して滅ぼした後、新羅が唐を朝鮮半島から追い出してしまうことにより、九州についてはまたまた空白地になった、と見る方が自然でしょう。

そして壬申の乱が起こり、近江に成立していた天智天皇の政権を天武天皇が滅ぼす、という日本古代空前の大乱が起こるわけです。

こうした事象を考え、その後の世の701年大宝律令制定、710年平城京遷都、といった時代において編纂された日本書紀の編者の都合で、そのように曖昧に記されたのではないかと睨んでいます。

つまり、倭国と日本国は別の国であると推論する次第です。 

日本人は後にいずこから来てそれまでの倭人を征服なり放逐なりしたのでしょう。その放逐された側の倭人の代表者が卑弥呼の系譜を継ぐ九州倭国の王たちだとしたら?

などと考える歴史の想像は楽しいものです。

現代に通じる歴史の編纂者を任じておりますが非常に荷が重い筆者からは以上です。


(平成28年10月23日 日曜日)

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歴史を語りつくすというオフラインの会合に出て満足したという話です

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