黄金の奴隷となるなかれ
関ヶ原
関ケ原の戦いがあったのは、1600年9月15日。つまり、明日です。
関ケ原の戦いは、その9月15日だけを見ても面白くない。毎年、関ヶ原から遡る2年前の豊臣秀吉の死去から見ていかないと意味がわかりません。しかも、関ヶ原で会おうぜとして会戦にもっていったわけではなく、先に豊臣家内の武闘派と文治派の争いがあって、そのままもともと外様の外様だったところの徳川家康が武闘派に乗っかって徐々に地位を固めていった、いつのまにやら家康の私兵集団になっていったというあのストーリーである。そこが面白いのです。
そして、ここに、本多正信という人物が登場します。関ケ原の当時62歳。
家康の参謀役、知恵袋として秀吉死去から関ケ原までの一連の動乱イベントを仕切って自分も脇役として出演し、見事乗り切った人物である。
槍と鉄砲による肉体的な戦いは関ケ原の一日だけ。しかも彼は秀忠軍に属していて当日間に合わなかったため、参戦していない。しかし、それまでの2年をかけて、正信は謀略の限りを尽くして家康の天下取りを支援し演出してサポートした。最大の功労者と言ってよいです。
正信は、相手の出方を考えに考えて打ち手を考え、自らの戦略を表に出さずに着々と実行していくタイプの参謀でした。いわば居飛車戦法です。その正信の策略が面白いように当たり、「戦う前に勝つ」条件を揃えるという、戦争の見本になるような勝ち戦を実現していきます。
司馬遼太郎の名著『関ケ原』に、そんな正信が、社会に限りない面白みを感じたという一節があります。概略以下のようなことが書いてあった。
・若いころの面白さは、恋愛、酒、夜ふかし、戦場の武辺沙汰など肉体で感じるものであった。しかし、年を取れば、肉体が衰え、体を使っての楽しみが薄らいでくる。
・ところが別の楽しみがせりあがってくる。それは、権謀術数の楽しみである。これが至上至大の大愉悦である。
・家康の権威を借りてさまざまな権謀の筋を書くと、世間が面白いように正信の芝居の筋に乗ってくる。世間はこんなにも面白い場所だったのか、と思わず小躍りしてしまうほどである。
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本稿を通じて考えてみたいのは、おっさんになってから、何を楽しみに生きるかについてである(いや、もう十分におっさんなのだが、まだ先は長いので。だって正信は関ケ原当時62歳、今の年齢で考えると80歳を超えているといって過言ではないです)。
確かに、権謀術数というほどではないが、自分がアドバイスしたことがうまく作用して好結果が出たり、過去の打ち手が巡り巡って返ってきたりすると、とてもうれしいし、そういう社会が面白いと思う。
おっさんになってからの人生の楽しみは、こういうことだと思う。
さて、ブログ子も、そんなに自慢できるものではないが、年齢相応の経験・人脈がある。自分は偉くはないが、まちがいなく周囲は偉くなってきた。いわゆる世間知もついてきた。
でありながら、普通の会社員が抱えるしがらみは少ないといえます。
これらの諸条件を総動員して、知力を絞って戦略を練る。そして世間に対し手を打って、自分のやりたいことを実現する。
おっさんではあるが、先は長い。100歳まで生きるつもりなので、後半戦はこんな楽しみ方を体現したい。
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関ケ原の後日談。
本多正信は最大の功労者でありながら、大名としての石高という意味では恵まれなかった。というか、加増の話が合ったものの、固辞して受け取らなかった。
彼は栄達したり加増されたりすると、周囲の妬みを買って身を滅ぼすということを知っていたのだ。息子にも「加増は受けるな」と言っていたにも関わらず、息子は加増を受けてしまい、勢力争いに負けて失脚した。
世間を相手に勝負をしつつも、自らの栄達や報酬は追求しない。
これも故事からの学びである。
雇用主や親分に対峙し、年俸はあえて切り下る。
黄金の奴隷となるなかれ。