行きすぎな新型コロナウイルス対応
ちょっと行き過ぎではないかと思う新型コロナウィルスの「対応」について
おはようございます。
昔、筒井康隆さんの小説だったかで、「近くに寄ると人の心が読めてしまう」という能力を身につけた人間同士が、それぞれの近接接触を避けながら過ごすことになった近未来小説がありまして(調べて、筒井康隆著「家族八景」主人公火田七瀬と判明)、こんな本を書店で手にとって購入し、歩きながら読んだことをふと思い出したのですが、この2020年1月の中国武漢市に端を発した新型コロナウィルスの流行については、この、人から人への近接感染が報告されていることから、できるだけ人と人とを2メートル以上離しておく、接触しないようにするということが言われるようになりました。
これは、まさに小説のような世界でありまして、自らが病気の餌食になっても構わない、とたとえ思ったとしても、自分でも知らないうちに「保菌者(キャリア)」となってしまい、人様に感染させて迷惑をかける、ということはやりたくないというのが人情である以上、あらゆる人と人とのリアルなコミュニケーション、という、これまで人類が自らの種族を発展させてきた一番の「力」を発揮できなくなったという、まことに恐ろしい時代が到来したというわけです。
当面、ワクチンが精製されるまで、というのが希望ではあるものの、この新型コロナウィルスはすでに変異を起こしているという報告もあり、いたちごっこが続くことが濃厚であり、これからは、自らが死なないこと以上に、他者に感染させて人類社会に迷惑をかけないようにしたいという人間の根元的な安全への欲求を振り払うほどのベネフィット(利得)や報酬(リワード)がなければ、人の意識をリアルな場に呼び戻していくことは難しくなる、そんな「集客」「人を動かす」ことにリスクテイクの莫大なコストがかかるという時代がいきなりやってきたということなのだと思います。
そんな中、日本はいつもの同質的社会の宿痾なのか、現在、まさに一億総コロナな状態になっています。
この「傾向」は、かの1941年の太平洋戦争前夜から、何も変わっていないと思います。
日本国においては、古来より、国民の意識と世界が目指す方向性としての社会経済のニーズとバチっと合えば、強烈な推進力となり、その成果を見た世界が二度見するほど驚くことがあります。
明治維新や高度経済成長、そして元寇撃退や(鉄砲生産量当時一位となり事実上最強軍事国であった)戦国時代もそうだと思います。
そして、この新型コロナウィルスに対する対応としては、政府としては要するに民間の、各人の判断任せとなっております。
その上で、国有の機関、例えば九州国立博物館とか、福岡市民図書館とか、そういった巨額な公的な施設が、いきなり休館となってしまうという事態を見た民間側が、同じように倣って経済活動は縮小の一途を辿ります。
そんな、良くも悪くも右に習うのが国民性になっていると思われる日本のいつもの状況であり、海外から見れば非常に珍しくある意味滑稽にみえる日本の状況なのですが、本当に日本がこの新型コロナウィルスでまずいことになっているというのは、1月時点で世界が警鐘を鳴らしていた時には日本の誰も聞いてはいなかったのです。
国民の1/3が65歳以上という、新型コロナウィルス重篤化リスクの塊だとも言える日本に於いて、それを隔離・治療出来る施設が3000室程度しか存在しないことが問題の根源であり、効果的なワクチンが出来るまでは「管理能力以下に」「重篤患者数」を「コントロール」する事が肝要なのです。
そうしないと、コントロール不能になった患者が溢れ出し、自宅もしくは医療機関の外で、老人がバタバタ死んでいくということになるわけです。
だから熱が出ても出なくても、できるだけ、国民諸氏におかれましては、じっくりと自宅待機してもらうしかないわけです。
そして、各都道府県知事及び政令市長はクラスター(集団感染源)を把握する為、検査をもっとすべきですが、そもそも施設が足りません、ということが、ことのまずさの本質でありまして、このような中、国会は桜のこと、官僚は文書作るだけ、民間会社の大きいところも社内官僚がせっせと通達つくるだけのいつもの日本になってしまっているところは、大変問題ではないかと思っているのです。
もちろん、筆者は、自分自身が無自覚の保菌者かもしれないので、極力人と会わずに、あっても1メートルの距離を保って話す、また正面から話しかけず、並んで座るなどのコミュニケーションで済ませるようにしています。
以上、日本で新型コロナが流行しやすい風土的理由として、真面目、社畜、体調悪くても動き回る、各自の判断と言われると「ほかはどうしてる?」と自分たちより大きな組織を見て右にならってそのまま動き回る、リアル飲み会好き、リアルイベント好き、口頭報告大好き、出頭こそ善、電話やLINEで重要な話は御法度、といった文化があると思います。
実は、対策が取られていない、ということが問題ではなくて、この辺の自然にやってしまうところこそがウイークポイントなのです。
つまり、これは、働き方改革とかいうのをぶっ飛ばす、明治維新以来のパラダイムシフトだということです。
むしろ、この危機を良かったことと考える胆力をもって、できることをやることに集中した方が良いかもしれません。
むしろ、コロナウィルスが蔓延しそうとか危ないとか、真実が分からない事に振り回されても仕方がなく、今ある情報で対応できる、人との接触を極力避けて静かに過ごす、ということに徹して、自分が体験した情報ではなく、何かを挟んだ情報には健全な批判精神をもって当たるということでしょう。
変えれない外部環境にあたふたするよりコントロールできる内部環境のみにフォーカスし、 「業務の非効率さを撲滅する」「組織や仕事のやり方の再編成」「リモートワーク」「WEBサイトや営業先の再選定や戦略の修正」などこの時期だから会社や組織、自分のあり方を変えられることはたくさんあるということです。
だからむしろ、人類75億人が立ち止まって東京オリンピックも開催するかどうかまで踏み込んで考える機会が得られたのは良かったとすら筆者は考えています。
世界の人類より、はるかに日本はそうした感度が低く(それが長期にわたる社会の安定に寄与したことはいうまでもないのですが)、日本はいつも外圧によってしか変わらない、というのが2,000年の日本の歴史を見た上で感じることです。
渡来人の技術伝承しかり、仏教伝来しかり、元寇しかり、鉄砲、キリスト教伝来しかり、そして江戸末期の開国と、これは、逆に「普段の」日本の統治システムが、極めてうまくいっていた、ということの裏返しでもあります。
書き終わろうとしたところに、全国の小中高校において、内閣総理大臣より2020年3月2日から春休みまでの臨時休校の要請がなされたとのニュースが入ってきました。
江戸時代の寺子屋時代から、太平洋戦争中でも、東日本大震災でも、全国での一斉休校など、こんなことはなかったと思います。
ものすごい時代に生きているということだけはわかります。
いよいよ総理大臣も動き出したかというところですが、それより前に、中国韓国からの入国禁止が先だと思います。
今回の措置を「自粛」と表現する人が多いようですが、今回は、震災や災害とは違って、自粛ではなく「感染予防」「(自らが罹患する)(自らが保菌者としてキャリアとなってしまう)リスク対処」の面が強いということはわかっていながらも、それでも、皆が巨大なリスクを少しずつ負ってる当事者であるからということで、全ての主要な経済教育活動を止めてしまうことが最善だとは思わないのです。
休校なら休校で、課題を出しておき、それをオンラインで教え合うような方向にシフトすることを望みます。
相変わらず、とりとめのない記事になりましたが、それぞれの判断に従い、冷静に、過ごしていきたいと念じまして、本日の記事は以上とさせていただきます。
(2020年2月27日 木曜日)