スマホやPCから自分の時間を守るためにやるべきたった一つの対処法:「通知」を切るという方策について説明します(2020/03/09)

通知や既読やいいね!を「期待」してしまう人

おはようございます。

2020年3月のスマホ依存症の人生から教訓を学ぼうという意欲的な記事です。

グーグルやアマゾン、フェイスブックにアップルという、時価総額の巨人企業たち(IT四天王)が世界の経済社会を席巻して、しばらくの時が経過しました。

こうしたITジャイアントの特徴は、これまでの力を持った時価総額上位の大企業、たとえば少し前の時代のアメリカのGE(ゼネラルエレクトリック社)や日本のトヨタ、といった企業と異なっております。

これまでの巨大企業は、その時価総額も大きさに比例し、たくさんの従業員を雇用する、雇用主としての面があって、その存在価値も「正当化」されてきたのですが、今のGAFAMといわれる超時価総額企業(1兆ドルクラブ)の面々は、これとはかなり違ってきているのです。

つまり、従前の大企業コンツェルンに君臨してきた、GEやトヨタといった企業ヒエラルキーの頂点に君臨していた「パワーエリート」「従業員」「幹部」といった被雇用者の姿が、まったくと言っていいほど見当たらないのです。

彼らの「仕組みとしての」企業自体の収益源は、我々の耳目を集める「広告」そのものです。

彼らの商材は、SNSと言われて、我々が、確かに「無料」で利用するものですが、そこらここらに、「広告」が張り巡らされていて、その「広告塔」としての価値を高めるために、世界の天才たちが、悪魔的な発想で、我々の時間を丸ごと奪い取ろうと、彼らの商材に対して我々が興味を引かざるを得ない仕掛けをこれでもかと張り巡らせているのです。

一番が、「通知」機能です。

そして、見たよ、という通知にしかすぎない「いいね!」や既読の数が増えれば増えるほど、これを麻薬のような快感に感じてしまう、ドーパミンがバリバリ出て承認要求を満たされてハッピー!という我々人類のDNAレベルに刷り込まれた力を刺激して、これでもかというくらいにさらに通知の嵐を浴びせてきます。

この強力すぎる誘惑に勝てる個人はいません。

ですので、適度にスマホと付き合う、というのは、実はまじめな人ほど不可能なのです。

我々の脳には、通知を受けると反応するという脳の仕組みが生まれながらに備わってしまっているのです。

ですので、筆者のような?真面目な読者のみなさんに、このことをわかってもらったうえで、必要で有益な、たった一つの対応策をご説明します。

それは、「通知」機能を「オフにする」というものです。

アプリのアイコンの右上に表示される、あの赤い丸ボタンが表示されなくなるようにするのです。

どのアプリにせよ例外なく、です。

そして、例えば朝の、活力に満ち溢れた生産的な時間帯などに、スマホによるSNSインターネット巡回といった罠にはまり込むことがないように、スマホ時間についてはどうしても眠くなってしまう昼食後の午後やそれこそ昼食時などに限って行うことをお勧めします。

人間の「承認要求」にダイレクトに作用するためのSNSやツイッター、インターネットという仕掛けを使って、これでもかという以上に我々の時間を吸い取ろうと画策している、こうしたIT大企業に対抗するのは、容易なことではありません。

しかしながら、結局、「他人の人生を生きる」「他人の人生を覗き見る」ということでしかないSNSやインターネットを通じてやることのほとんどについては、自分の人生の参考にはできても、自分の人生を丸ごと置き換えることはできないわけです。

であれば、やはり主従をわきまえて、まず己の人生、そしてしかる後に「暇つぶし」の他人の人生、という塩梅(あんばい)で臨んだほうが、SNSによる他人の人生に振り回されないでよいのかもしれません。

しかし、インスタで自らの写真をUPすることも、他人の人生なのか?というお叱りの言葉をいただくかもしれません。

それは、もちろん自らの活動や作品を世に問う、ということで大切なことなのかもしれませんが、それならば、いいね!の数を増やして悦入りする以上の、具体的な成果や動きが出てきているか、ということを真剣に考えてみたほうがいいと思います。

筆者がこうしたブログをやっているのは、こうした日常の発信を通じて、結局何らかの事業や仕事や趣味でもなんでもいいですが、何らかの他人からの具体的な動きがなされたときに、筆者という存在を少しでも「思い出してもらう」ためにやっているに過ぎません。

あとは、純粋に、自分の活動や自分の考えたことを、「公開する」前提で書き留めておくことは、自分人生ログを取る、という意味で自分自身にとって非常に有用であると考えています。

誰にも読まれない日記、ですと、三日坊主どころか最初から書けない、というくらいの自信があります。

少なくても、他人の目に晒される、というところから、文章でも絵でも写真でもその他表現作品においても、それにより命を得るものだと考えているからです。

SNSにより、社会的動物としての人間は、自らの持つ承認要求を、極限まで高められる手段を手にしました。

今や、カネよりいいね!の数ですし、ツイッターのフォロワー数やYouTubeチャンネル登録数が個人の存在価値を図るバロメーターになりつつある時代です。

このような、(もともと人間にはビルトインされているプログラムであるものの)制御しきれないくらいに肥大化してしまった自己承認要求といかに付き合っていくべきか、これが地球上に75憶人まで増えたけれどもこれから減っていくことがかなりの確率で確定の、我々ホモ・サピエンスが本気で種族として考えなければならないところだと感じています。

そのような偉そうなことを書きましたが、いまだにこのブログの日次PVは150程度、YouTubeチャンネル登録数も170程度と、さみしい限りで自らの自己承認要求に押しつぶされてしまいそうになっている筆者からのコメントでした。

チャンネル登録も、よろしくお願いします。。。

それでは、本日の記事は以上です。

新型コロナウィルス感染、により、まさに2016年邦画「シン・ゴジラ」のような感じになってきた日本より、お伝えしました。

また明日。

(2020年3月9日 月曜日)

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