(2020/04/16)明治維新十傑、日本国軍の創設者「大村益次郎」についてちょっと知ってもらいたい記事です。

大村益次郎

おはようございます。

筆者の時々語るシリーズ、歴史上の偉人を語っていくという今回は、明治維新十傑、日本国軍の創設者大村益次郎のことについて書かせていただきます。

大村益次郎という町医者であり学者がいました。

この人が、日本の近代化を押し進めた天才です。

明治維新十傑といいますが、この中で特に重要で、中学校の教科書にも絶対乗っている、西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎(木戸孝允)に割って入るほどの評価であり、筆者個人的にはこの人が人間的にも一番のロールモデルと考えております。

靖国神社の正門に続く参道に、大村益次郎の大きな銅像が建っていますので、靖国神社に行かれる際には見ていただければと思います。

靖国の参道のど真ん中にでかい銅像が建つほどの人物、大村益次郎。

彼がやったことに、後世の我々がどれだけの崇敬を払っているか、この一つをみてもわかろうと思います。

大村益次郎は幕末の長州藩の出身で、学者であり医者でした。

ウイキペディアより引用しますと、

村医の父親を持ち、天保13年(1842年)、山口の防府で、シーボルトの弟子の梅田幽斎に医学や蘭学を学び、翌年4月梅田の勧めで豊後国日田に向かい、4月7日広瀬淡窓の私塾咸宜園に入り1844年6月まで漢籍、算術、習字など学ぶ。同年、帰郷して梅田門下に復帰後、弘化3年(1846年)、大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ。適塾在籍の間に長崎の奥山静叔のもとで1年間遊学し、その後帰阪、適塾の塾頭まで進む。

Wikipedia「大村益次郎」

ということで、大変勉強のできる、かつ人格的にも優れた合理主義者であり、当時第一等の知識人であったことは間違いありません。

その大村益次郎は、これからの近代化の世の中においては、国民こぞって殖産興業、近代化を推し進めなければならず、薩長土肥とよばれる、朝廷と天皇をかついで江戸幕府を屈服させ、明治維新を成し遂げた雄藩連合のその先を見据えていました。

国軍創設の最高責任者、日本軍隊創設の最大功労者にして、徹底した合理主義者であり加えて大いな人間力と熱を持っていた、天才大村益次郎はやがて国民皆兵を唱えるに至り、やがて武士の特権を奪うものとして反発を買い、暗殺されます。

大村益次郎の理念は、全国平等の徴兵制による身分にとらわれない世界に冠たる軍隊を作ろうとしました。

これは、明治維新を成し遂げた薩長土肥の武士階級からすれば、自らの存在意義を真っ向から否定するものでした。

今までの、各藩ごとにばらばらな兵制では、どれを参考にしても欧米列強の圧力に対抗することはできない、日本政府として全く新しい制度を作り上げなければ、日本の将来は危うい、と大村益次郎にははっきりと見えていたのです。

明治2年、京都にて軍事施設の視察にあたっていた折、武士から刀を取り上げる逆賊として、刺客に襲われます。

享年45歳。

日本で最大級の、神となったご先祖様が祀られている靖国神社、その正門に銅像が建つほどの記憶を当時の、そして後の世の人に残した偉人大村益次郎。

長州といえば、ご存知松下村塾の吉田松陰先生とその門下の人々があまりにも有名ですが、町医者から日本国軍創設までを担う大きな責任の中で生き、そして理念を相容れなかった旧藩武士勢力の凶刃に斃れた大村益次郎という人のことも知っていただければと思います。

筆者もただ今45歳です。

今とその時の寿命は違うとはいえ、西洋の合理主義に学び、古い慣習にとらわれず、次々と改革を成し遂げた熱のこもった努力の天才大村益次郎。

最後に、大村益次郎の日頃語っていたという言葉を引用して終わります。

常識を発達させよ。
見聞を広くしなければならぬ。
小さな考えでは世の役に立たぬ。

NHK歴史番組「その時歴史が動いた」より

45歳と言えば、風の谷のナウシカの腐海の剣士ユパ様も同年齢です。

こちらからは以上です。

(2020年4月16日 木曜日)