コピーされたものしか残らない(2021/05/26)

photo of woman sitting on floor while painting

コピーされたものしか残らない

ボブ・ディランが「違法ダウンロードによって、音楽の価値を軽んじられていることをどう思いますか?」という問いに対して、『元々価値なんて無いんだから問題ないじゃないか』と答えたという話があるそうです。

ボブ・ディランは価値というものについて、よく分かっているようです。つまり、ボブ・ディランが発する音楽という「音」自体に価値を感じるのは、リスナーや顧客やマスコミや信者のみなさんであり、そうした連中が崇める音楽の価値なんてものを、所詮音を発している作曲家や歌手のほうは大して気にしていないし、何ならいくらでも発することができるよ、という原点を示しているのでしょう。

死んでしまった作家である、例えばゴッホの絵やピカソの油絵だったら有限ですから、有限故に価値が出るわけですが、生きている作家や作者の評価はまだ定まっておらず、むしろ制作物を量産しないほうが、既存の作品の価値が高まるかもしれないのです。小野小町の短歌もたった一つしか残っていないのに、歌仙に入っている、そのようなことなのかもしれません。

ですので、こんなブログ記事を many many 沢山沢山を残したとしても、実は、多作であるほど価値が落ちていっている(単価としては)のではないかとも思うわけですが、そもそも評価を高くするためには、多くの作品を、あの手この手で顧客に示し続けて、何かがハマってバズるまで動き続けなければならないというのが真実でありまして、先のような音楽の価値なんてない、と発言できる資格のある人は、極限まで試行を続けてその表現手段の価値を高めた涅槃に到達した人だけに許された発言であるとも言えるのではないかと思うわけです。

名人になる前に、名人ふうな発言はできません。学歴批判をするのであれば、自身が最低でも東大の学部くらいには入ってから言うべきでありましょう。

思えば、漢書地理志も魏志倭人伝も、源氏物語も竹取物語も、今の我々が読めるのは当時の人達から連綿と写本が続いた、つまりコピーされたものしか残っていないわけです。コピーしたい、写経して残したい、床の間に飾りたい!何なら一緒に寝たい!!というくらいに、世間で人気が出て評判にならないと、そもそも表現手段なるものは残らないということなのでしょう。鳥獣戯画にしても、あの落書きをうまいこと保存していかないと、あんな大きな巻物が現在まで残ることはないかと思います。なので、どんな作品でも、何らかの形で残しておくというのは大事なんだと思います。

真っ直ぐな批判に対してはまっすぐ返す。そのように自ら鍛えて励んで参りたいと思います。このブログから、いつの日か電子書籍の出版からの印税ウェイウェイ生活を夢見ている筆者からは以上です。