大学は研究機関であって最低保証の職業訓練機関ではないと思う(2021/05/27)

brown and black wooden chairs inside room

大学とは研究機関なのか教育機関なのか

大学は出たけれど、その分野に従事する方々に何も教えられない人も結構います。しかしながら、これは各学生の資質と努力の問題であり、実は大した問題ではないと考えています。そもそも教育機関として大学に過度に期待するのが間違っていて、学びたい人は勝手に研究機関としての大学に居候して、大いに学び知見を得て、その研究分野で専門性を高めたいなら自動的に大学院修士課程や博士課程に進むでしょうし、それはそれとして社会に出て就労含めて勝負しよう、もしくは手に職をつけて(サラリーマンを含む)自己の労働力をもって生活資金に変えようと考えても良いわけです。例えば、農学部卒業しても農業者に何にも教えられなくてもいいわけです。

そして、大学の方も、そうした専門性を習得しない学生に対しても、別段何らかの措置を行うことはなく、むしろ放置しているものでした。そもそも、研究と教育とでは目指すところが違いますし、さらに教育といっても、義務教育や高等学校の授業じゃあるまいし、やる気のない学生の相手を大学の貴重なリソースを使って行うことこそ無駄の極み、時間と手間とカネの浪費です。自ら学び求めようとしない学生は、それが気づくまで放任するか切り捨てて剪定するのも良い方法だと思うのです。

学生の最低保証?

しかしながら、最近の大学はそんな目覚めない最底辺の学生にまで、丁寧に丁寧に授業を与えて教育するようになってしまいました。昭和の昔は、やる気のあるものだけがやる、単位はあげますから授業には来ないでください!がスタンダードだったのに、これでは、学生の最低保証をつけるために費やす大学側のリソースは膨大なものになってしまうので心配しています。ノーベル賞を取る気合のある学生に対して大学のリソースを集中投下すべきなのに。

だいたい満18歳から青年なのだから、放任でいいのが普通だと思うのです。その放任環境で、学生側が勉強するかどうかは全くの自己責任です。出欠を取って最低保証のお墨付きを与えて卒業させるのは余計なお世話とも思います。もちろん、最底辺近くの成績で卒業している筆者としては、あまりこの辺を強くいい過ぎるとブーメランになってしまいますのでこのへんに致しますが。

そんな昭和生まれのかつての大学生は、放任自律を強く支持します。最低保証ではなく文字通りの最低な成績の学生だった筆者も無事社会に輩出(排出)され、社会に爪痕を残しながら現在に至ります。

みなさんも是非、自律した学生、自律した社会人を目指して自学自習に励んでください。ともに社会と世界に爪痕を残しましょう。