闇落ち落第経営者の自学ブログ開始のお知らせ(2021/05/26)

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従業員もするというブログというものを、(元)経営者もしてみようと思って、ブロガーの道を歩んでみようと思います。5月23日付で、某社の代表者を降りることとなり、その次第と心境を、少しブログなるものに書きつけるものです。

ある人が、「つなぎとしての2代目」の役割を事実上終えて、登記などの定例のことの準備も始まり、在宅勤務なので特に退任行事もなく、そもそも「社員」としては残るという形態であることから、何も会社運営上やることはありません。むしろ、いろいろやらないといけないことが滞っていて、一日中、あれこれしながら騒いでいるうちに、夜が更けてしまって「もはやブログ原稿でも書くか」という心境に至っただけのものです。

◆過ちを改めざるこれを過ちという

4月・5月と、自らの判断や選択のミスで「火の粉を払い損ねたと思ったら炎上した」「消火したと思っていたら消し炭に熱が残っていて燃え出した」「延焼のおそれのある部分に有効な空き地を用意していなかった」「安全なコンロと思って火をつけたら爆発炎上した」という構図でいろいろと痛い目にあった。現在進行形で。

イメージとしては、「地獄への道は善意で敷き詰められている」のことわざの通り。ちなみに、今もって方向性としては間違っていないと思っている。しかし、何かやり方・進め方・相談の仕方がおかしいようである。何か大きな違和感はある。やることなすことに、予定・期待していた結果とのズレが生じてしまっている。

原因は「遅れ」と「先延ばし」であろう。

ネット上にあふれる言葉を借りると、「人間は一度選択を下すとその選択が最善なものではないと心のどこかで感じていても過去の選択を正当化する為にその選択に固執してしまう」という。こうした「一度決めた行動や意思決定が状況の変化などで合理性を失っていたとしても、最初の決断を保持し続けてしまう行動パターンに陥ること」を『立場固定』というらしい。

自分が過ちを犯した事を認められない。その結果、損失が拡大してしまう。「間違えたかも…と、少しでも思うならさっさと素直に認めて方向転換しよう」と、このところ出会う複数の先人が教えてくれている。

◆芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を読み返す

「蜘蛛の糸」を読み返してみた。

1918(大正7)年4月に脱稿し、7月に文芸雑誌『赤い鳥』にて世に出された作品である。スペイン風邪が大流行し始めた年の作品である。1918年3月にアメリカ合衆国のカンザス州から広がった感染症は、第一波として北米大陸からフランスを経てイギリスやイタリア、そしてロシアなどに広がりを見せ、日本にも1918年5月ごろには到達していた模様。

芥川龍之介の構想が生まれ、文章が洗練されていくプロセスの中でスペイン風邪がどのように影響したのかわからないが、スペイン風邪の恐怖にさらされていた先人たち(といっても、その時点での「子どもたち」や「その親世代」)からすると、未知の感染症に対する不安感もあって、この作品は大きな反響を得たのではなかろうか。

むろん、文学史の文脈から紐解かないといけないことは、言うまでもない。最近、新型コロナウイルス感染症の蔓延に伴う各種の影響や、迷走する(ように見える)政策、意図的にしているように受け止められる伝達・報道について、振り回されていることからの疲れのようなものも、筆者には存在していることも差し引かねばなるまい。

さて、「蜘蛛の糸」を読み返してみたわけである。

このところの失敗の繰り返しを鑑みると、自分が「?陀多(カンダタ)」になったような気分もする。当然、ある種の「罪人」になった自覚もある。「蜘蛛の糸」が切れてしまったというのが作中のストーリーであるが、なんとなく「蜘蛛」も地獄の中に引きずり込んでしまったのではないかとも不安になっている。

さらに言えば、単なる「地獄にいる一罪人」ではなく、「餓鬼」になってしまっていないだろうか。「餓鬼」として、他の「ただ罪を背負っている方」や、「蜘蛛」を地獄へ巻き込んでいるだけの存在になっていないだろうか。

いずれも妄想であってほしい。
流行りの「コロナ鬱」であってほしい。

そう逃避的な願望に思いを馳せながら、冒頭のとおりの「過ちを改めざるこれを過ちという」という言葉を浮かべ、「地獄から始まる道」を前に向かって進むことにする。「前に」というのがどの方向かは定かではないが、とにかく前に進むものとする。