もう飲み会なんてしない

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飲み会ダメ、ゼッタイ。

もう飲み会なんて、リスクしかありません。もう飲み会なんてしない。

もう飲み会なんかするかって、言わないよぜったいー。

「セクハラ回避のため、飲み会は男性だけ、女性だけのグループで」というのも、もう無理な時代になりました。

セクハラ(男→女、女→男)が防げても、同じセクハラ(男→男、女→女)やパワハラ(男→男、女→女)は全く防げないからです。

そんな令和の御代になったのに、まだみんな師走の忘年会とかするんですかね。

できるんですかね。

論理的に考えたら、もはや飲み会なんて、しかも職場の飲み会なんて、危険すぎてできるわけがありません。

飲み会に会社支給貸与のパソコンやタブレットをなくしてしまった、といったうっかりミスが、致命的な会社人事評価上のバツになり、今後の出世も異動もすべてフイにしてしまった、そのような事例を知っている身としては、職場を離れた飲み会なんて、恐ろしくて行けるもんじゃありません。

ハラスメントを未然に防ぐ「ハラミ会」なるものを開催しようという動きが話題になっていたようですが、そんなの、女性や男性が、いつどう傷つくかなんてわからないじゃないですか。

昭和生まれのおっさんの筆者なら、うっかりセクハラしてしまう可能性、というか自信があります。

そんなおっさんは、すでにやってますけど、口を貝のように閉ざして会話は文字情報だけでやりとりするようになるのです。

飲み会には女性を呼ばずに男性だけで行こう、などという中途半端なことはやりません。

女性を排除することで、コミュニケーション齟齬によるトラブルのリスクを下げるこのやり方は、逆に「女性排除は差別」「解決ではなく逃避」などと攻撃されるからです。

ですので、職場における円滑な人間関係維持のためには、出張先でお菓子を買ってくるとか、果物を差し入れるとか、そういうことでお茶を濁します。

コミュニケーションにおけるリスクがこんなに高まった現代社会において、そんなめちゃくちゃリスクが高い世の中において、昭和な気分で人間同士の相互理解なんて求めちゃだめなのです。

そんなの諦めてそもそもお互いに関わらないことことが、「最適解」だと思います。

そんな気持ちは、特にオンラインゲームをやる皆さんにはよくわかってもらえると思います。

オンラインゲームをやる人であれば、「コミュニケーション拒絶が最適解」というのは、もはや多数説というより判例です。

「アイテムを使っていないみたいですが、わからないなら教えますよ」と言っても、それは「プレイスタイルの強要」になってしまいますし、実際、そういう「晒し」を何度も見ました。

提案者はたいへん丁寧な口調でまっとうなアドバイスをしているのに、ヘタを通り越して、ゲーム世界上やってはいけない地雷行為をしている人のほうが、「知らない人にこんなこと言われたんです!ひどいよね?わたしかわいそうです!」と、相手の名前がわかるように晒しツイートをするわけです。

「なんてひどいことを言うんだ!」と怒ったり、ショックを受けたりするわけです。そして騒ぎます。

運悪くそういう人に当たってしまった、関わってしまったが最後、相手が大騒ぎして通報、最悪「アドバイスをした親切な人」のアカウントが停止されるのです。

アカウントの停止とは、その世界における死刑宣告、いやそれ以上の存在抹消刑です。

存在したという記憶や記録自体も消されるのです。

死刑宣告より残酷な処置だと思います。

そんなの、たまったもんじゃないです。

ということで、どんな相手にせよ、他人がどういう感想や反応やリアクションを取るか全くわからない、かつ想像のはるか上を行く被害妄想に囚われた御仁である可能性が排除できない以上、そんな世界でコミュニケーションをとるなんていうのは、リスクが高すぎる行為なのです。

そして、コミュニケーションをわざわざ取らなくていいのにのこのこ出かけていく最たるものが、夜の飲み会。

飲み会、ダメ、ゼッタイ!

どんなゲームにも、途中離脱機能やキック機能(特定プレイヤーを追い出すシステム)があるように、現実の、この令和の世の中には、社会的に抹殺できる機能や危険がいや増しました。

街を歩いていて、そのような「ハズレ」を引いたら、たまりません。

ですので、そんな危険な場や位置からは、すみやかに自分が抜けるか、もしくは相手を追放すればいいのです。

そして、相手を追放することにはまた更にリスクやコストや工数がかかる、要するにめんどくさいのでありますから、ここは君子危うきに近寄らず、ということでこちらから近づかないようにすればいいだけです。

そんな、百億光年の彼方にしかない、「わかりあう」なんていうのは最初から諦めて、「やばい人とマッチングした」と割り切って無言で臨んだほうが、この世界に対する態度としてははるかに無難だということになったわけです。

傷ついた弱者を守るためという建前が生んだ、強烈な「コミュニケーションリスク」という魔物。

コミュニケーションを拒絶することが生き抜く上での最適解になった理由は、この世界が「傷ついた弱者」にはるかに優しくなったからだと思います。

昔のゲームやコンテンツは、よくも悪くもプレイヤー同士のやり取りや業界へのコメントも盛んでした。

当然、人々が議論すれば、当然トラブルもつきものですが、そういうことも含めてゲームやコンテンツの醍醐味もあったわけです。

他人を傷つけるのダメ、ゼッタイ。

しかし、今の時代は、「他人を傷つけること」の罪が、明らかに重くなりました。

遊びやゲームがヘタクソでまわりに迷惑をかけている人に、「もっとこうしてください」と言うことすら、「一生懸命やってる人に対してひどい!」と言われるご時勢です。

これは、仕事においてもそうです。

それくらい勉強してきてくれよ、ということすら、上司がほんのちょっぴり指摘すれば(それを受けてその人がメキメキ伸びるかもしれないという効果の方はガン無視で)、アドバイスを受けるのが嫌いな人だった場合、アドバイスをした側が悪者になること確定です。

だから、最低限「よろしくお願いします」「こんにちは」とだけいって、あとは無言でチャットで進めるのが無難です。

運営側(会社側)にもそんな世間様からは「厳しい取締り」を要求されがちです。

パワハラ上司は速攻で害悪プレイヤー認定で、そんな害悪迷惑プレイヤーを放置する運営は、「害悪プレイヤーを容認した罪」で被害者プレイヤーや潜在顧客(の皮をかむった同調圧力)から糾弾されるのです。

それを、「健全化」というのであれば、本当に聞こえはいいですけれども、こうもなんでもタブーになって、かつ個々の事案に対応した事実上の罰則が厳しくなると、結果的に社員やプレイヤーに「重いコミュニケーションリスクを負わせ」ることになっているのです。

そうすれば、そんな場では誰も発言しなくなります。

誰も、一緒に食事にいこうなどと誘わなくなります。

だって、そんな発言やコミュニケーション、リスクだけしかありませんもの。

で、「やばいヤツに当たったら辞めよう、抜けよう」「さっさと終わらせて次はうまい人と当たるのを祈ろう」「親ガチャかよ」となるわけであります。

コミュニケーションダメ、ゼッタイ。

迷子の幼女を見過ごす大人。

だって通報されたくないもの。

コミュニケーションリスクの高まりは、ネットでもリアルでも本当に顕著に高まっています。

授業をサボろうとする生徒の手を教師が引っ張ったら「体罰」。

子どもが泣き喚くからきつく叱ったら「虐待」。

ミスをした部下に意見を聞いたら「ハラスメント」。

これらは、体罰や虐待やハラスメントを減らし、より多くの人がしあわせに暮らすために発達してきた当初の目的を遥かに超え、すでに余計なものになって人類社会に広く横たわっています。

弱者を守るために「傷つけること」の罪が重くなればなるほど、「加害者になる可能性が高まる」リスクが急増します。

大雨のなかとぼとぼと歩く幼女に声をかけたら、大人は通報されます。

筆者、初老の男性(おっさん)。

確実に通報されます。

そんな末恐ろしいリスクを冒せますか?

他人を傷つけた人は批判され、罰せられます。

だから、加害者にならない最も確実な方法は他人と関わらないことなのです。

「正しいかどうか」などより「相手という個人がいかに傷ついたか、嫌な気持ちになったか」が焦点になる、主観的な世の中において、一度客観的に「加害者」認定されてしまったら、もう人権の回復は不可能です。

「正しさ」の話であれば、証拠を集め論理的に説明すればいいですが、他人が「傷ついた」という人の言い分を覆すことは悪魔の証明です。

できっこありません。

「他人を傷つけないようにする」なんていうのは本当に難しい、というか無理ゲーです。

ですからわたしは、加害者にならないように、コミュニケーションの拒絶を選ぶのです。

そもそもそんなバカに関わらなければ、トラブルなんて起こらないですから。

もちろん、良心的な言動を心がけ、現在の価値観に敏感に適応すれば、コミュニケーションリスクはかなり低くなります。

しかしながら、世の中には「しょっちゅう加害者になる危険人物」がいるのと同じように、「しょっちゅう被害者になる危険人物」も本当に多いと、国会議事堂の前などにたまに行くと、本当に思うのです。

自由参加の職場飲み会に誘われただけで「セクハラ」としてツイッターにお気持ち表明する人。上司からのアドバイスを「パワハラ」として人事部にご報告する人。

ゲーム内でクリアのために解説されたら「プレイスタイルの強要」として通報するお方。

たいていの人が「いやいや騒ぎすぎだろ……」と思うようなことであっても、本人が「傷ついた」と言えば、その人は被害者であり、あなたは加害者になるかもしれない。

相手がそういうタイプの可能性がある以上、こういったコミュニケーションリスクは、いかに自分が気をつけていてもゼロにはならないのです。

傷ついた人に寄り添うことが「善」の世界では、コミュニケーションリスクがアホみたいに高い。

つい先日、YouTubeにおいて、低評価数が非表示になったのもそうだ。

荒れるかもしれないから非表示にするという処置は、「視聴者とのコミュニケーション拒絶」ともいえる。

小室圭さん、眞子さんが文章で言いたいことだけ言って高飛びしたのも、「国民とのコミュニケーション拒絶」の結果だと思います。

わざわざコミュニケーションリスクを負って相互理解を目指すのは、愚かな人間のやることです。

これらのコミュニケーションコストはそもそも、傷つく人を減らし、理不尽に泣くことがないようにするための、「弱者を守るための建前」だったはずなのが、無用に肥大化し、人類社会を大きく覆いつつあります。

「コミュニケーションリスクが爆上がりし、コミュニケーションをとらないことが最適解になった」世の中を、どのようにこれから我々は生きていくのか。

喧嘩する自由を。

嫌いと公言できる自由を。

加害者にも人権を。

他人に関わらないのが、いちばん平和で安全。

多くの人の気持ちを守ろうとすればするほど、コミュニケーションは破綻し無力化します。

今日もわたしは、個人ではない、「この会社」の立場という自由な場を通じた発言(だって個人として発言したら糾弾されちゃうでしょ?そんな愚はおかしませんよ)として、「こいつら全然わかってねぇな、適当に終わらせて次がんばろう」と、無言で仕事やゲームをしています。

それが、一番無難ですから。

以上