建前と本音

建前とは、建築の世界でもともと柱や梁などで基本構造を組み立て、棟木を上げる日に行う伝統的な儀式のことをいいます。

一般的に「上棟式」「棟上げ」として知られているものです。

また、「建て方」とも呼ばれています。

施工に携わる人々集い、棟梁などが中心となって工事の無事を祈願します。

最近では、建築主と設計者、現場の職人などが顔合わせをするための場という役割もあります。

意味が転じて、建前と本音の建前というと、原則として立てている方針。表向きの考え。となり、「建前と本音」「建前を崩す」という言い方になります。

さて、日本人の深層心理を読み解くには、この建前と本音を理解することが肝要です。

ゼロコロナとか、寄付文化とか、NPOとか、ソーシャルビジネスとか、ボランティアとか、そういう恩着せがましい、自己満足フルマックスの、建前の態様の中に潜む本音、それこそが人間社会を読み解く鍵というわけです。

だいたい、貧困とか幸福感とか、そういうのを絶対的指標で考えることの無意味さについては、多くの人がその通りだと思っているのにもかかわらず、いまだに、国際指標上どうにでもできる貧困指標などをもとにして、日本は失われた何年で貧困化がこれだけ進んだみたいな議論が多く起こっていますが、そんなの当たり前です。

国民みんな、バブル絶頂の時から、ひとしく歳をとっただけです。

そして、労働生産性は落ちているくせに(要するに若くないくせに)、いっちょまえの報酬や給料をもらう、わけであります。

筆者個人の事例を考えてみても、5年前のわたしと今の私とで、特に労働生産性が上がったとは到底思えません。

むしろおっさん度を増しただけ、生産性は下がっていると思います。

社会全体で、高齢化シフトし、少子化がますます進んでいる、しなびた出涸らし国日本になってきているわけですから、ここにいくら公共投資だ金融緩和政策だとカンフル剤をぶちこんだところで、肝心かなめの国民が疲れて高齢化しているのですから無理なのです。

そして、マーケットを考えたら困ってて手を差し伸べて欲しい人の数は永遠の少数派です。

多数は、手と差し伸べてほしいなどと発言することはしません。

一方、逆に勝手に手を差し伸べたいと考えている人の数がいつも多いのです。

要するに、手を差し伸べてほしいと表に出して頼む側と、いつでも支援しますよと支援を口に出しておきながら、本当は何もやらない多数の側が、いつもミスマッチをしているのが、今の社会の構図なのだと思っています。

わが日本、この社会は困ってても手を上げないつつましい人が大多数なのです。

そして、手伝うから何でも言ってよ、というのは、単なる社交辞令だったりミスマッチを助長するだけの余計なお世話だったり、要するに、何の役にも立たない、むしろ触れると有害な関係だったりするということなのです。

建前と本音、いろいろなところに応用ができるところだと思います。

それではさようなら。

以上