篤姫と島津斉彬公

篤姫

将軍継嗣問題

十二代将軍家慶には男子だけで十三人の子があったが、結果的に三十歳を越えることが出来たのは家定だけであった。

家定も虚弱であったが、正室として迎えた鷹司家、一条家の姫が相次いで亡くなるという不幸に見舞われ、側室にも子がなかった。

そうしたなか、茂姫(広大院)は島津家に年頃の姫の有無を尋ねた。家定が病弱な公家の娘ではなく、茂姫の例にならい島津家から正室を迎えたい意向であるという。更に近衛家からも適当な姫がいれば養女として入興させたい、と積極的な意向が伝えられる。嘉永3年(1850)秋の事であった。

しかし、このころ島津は深刻な問題を抱えていた。藩主斉興の世子斉彬の藩主就任を推進する派とその異母弟久光の擁立を推進する派の争い、いわゆる「お由良騒動」である。

結局嘉永四年二月、斉彬の藩主就任で一段落するが火種は残っていた。

斉彬の盟友福井藩主松平慶永の述懐によると、斉彬は「この天璋院を我が子として、将軍家定公の御台所としたことは、幕府の威権を借りて、ゆら久光を圧倒し其党をも鎮定する為、もう一つは、我が一身の藩塀護衛をらなさんとする」ためと述べたという。

藩主としての地位を固めるためにも、幕府からの縁談が千載一遇の機会であったのである。また、広大院時代に上昇した家格も下降気味であった事、琉球貿易問題や武備拡張への幕府からの疑念の払拭というメリットもあった。

とはいえ、せっかくの縁談ではあるが肝心の適当な姫がいない。

嘉永六年(1853)三月、ようやく今泉島津家の姫を斉彬の実子「篤姫」として幕府に届けでをして、話を進める事になった。

篤姫は斉彬のいとこにあたる。

篤姫の人柄について、斉彬は慶永に「なかなか我々のような者が及ぶところではない。忍耐力があり、幼年よりいまだ怒ったところを見たこともなく、不平を述べた様子もない。度量は大きいと思える。軽々しいところはなく、温和で、ひとあしらいも、誠に上手だ。将軍家の御台所には妥当である。これは私が請け合う」と云ったと松平慶永は語っている。

また、将軍家への輿入れ費用がらかさむことを懸念した家臣に対し「このたびは私の困難、実に島津家の安危を救って下さり縁組の誉を得られた事は徳川家の大恩である。この縁組に費用が、かかるのは当たり前で(笑ながら)餓死に至るまでの費用でもなく、この上は徳川家の為に万端尽力し、公武の親睦をはかり天下の為におよばずながら精一杯、骨をおって恩に報いようと思う」と述べた。

篤姫は、形ばかりの結婚に耐え、病弱な夫を支え、将軍御台所として大奥3000人を見事に統べる篤姫には、斉彬の密命があったわけです。

参考文献:幕末維新と徳川一族

☆将軍家定の御台所篤姫

以上