(2019/05/28)「講義」というものの本質と「学習成果」は主体的にやらなければ得られないということについて

おはようございます。

2019年(令和元年)5月の、昭和生まれのビルメン王(@shinya_ueda)の昔話を述べることから始まるブログ配信記事です。

筆者のような昭和生まれにとってみれば、「講義」といえば、中学や高校の全日制スタイルの教室での「授業」、大して出席したわけではなくて本当に申し訳ないと思っておりますが大学の単位ごとの「講座」、それからカルチャースクールや講演会などで話を聴く「講演」といったものを思い出すのですが、もはや、令和生まれ…はまだ0歳児だから論じることはできませんが、平成の後の方の生まれの方々からしてみれば、「講義」とはリアルな場に出て話を聴くという以上に、ネット経由で視聴できる「動画」で学ぶということに違和感がないようになってきていると思います。

実は、筆者は京都で大学生やっていた時に、旧司法試験(「旧」とわざわざつけるところにわずかながらのプライドが垣間見えて微笑ましいですが)に挑戦するにあたり、司法試験予備校に通っておりましたが、その「授業」が、東京にいる専任講師のビデオ講義でした。

まだビデオ講義といった「先進的な」取り組みが浸透していなかった時代、若い学生3人だけの受講生で、決められた時間、資格予備校の片隅のすえた匂いのする講義室で、延々と、ただVHSビデオを職員がセットし、1時間半の授業が終わると10分休憩、そしてまた1時間半のビデオ授業を「聴く」という、シュールな時間を過ごしたのです。

努力が足らず、司法試験は落ちてしまいましたが、しかし、筆者はここで学んだのです。

動画授業というスタイルは、非常に有用なものであると。

そして、令和の時代になり、例えば司法試験、公認会計士試験、税理士試験といった難関資格試験や、大学入試、高校入試といった一般的な入学試験においても、業界最高水準の講師陣が、腕によりをかけて、多くの視聴再生に耐えうる質の高い「授業」をオンラインで提供できるようになりました。

しかしながら、今度は逆の問題が生じました。

授業を受ける側の主体性の問題です。

どんな「神授業」でも、最後は学習者が自分で書いて理解して覚えるところまで行かないとダメです。

自分で理解して考えて書かないと、講義を聞いてわかった感じになるだけでは、全く実力はつきませんので誤解のないようにお願いします。

ですので、動画授業には自分の手を動かすための紙(ノート)と鉛筆を持ち、ひたすら書いたり繰り返して声に出すことをお勧めします。

こうなると、講義を受ける「場」として、声を出しても周囲に迷惑がかからず本人も恥ずかしくない、遮音性に優れた「(昭和時代の)電話ボックスのようなもの」の中で、動画授業を受ける、といったスタイルが一般的になるのではないかと思います。

仕切られただけの空間では、どうしても周りの学習者への遠慮があって、声を出すことが憚られます。

この点に着目し、すでに大手の予備校や塾については、こうした電話ボックス型のオンライン英会話学校などの検討を進めているとのことです。

これからの新しい時代には、自席で作業もチャットもオンライン会話もし放題(電話を受けながら給湯室に口元抑えて早足で移動しなくても良い)のワークスタイルを追求してみても良いのではないかと考えています。

本日も雑駁な記事になりました。

最後に、講義においてはよく寝ていた筆者からの懺悔を加えまして、本日の記事は以上です。

(2019年5月28日 火曜日)

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