学生さんに対しておっさんが「学ぶ」ということと受験やテストの対策をするということを峻別することが大切だという話をします(2019/05/27)
おはようございます。
2019年(令和元年)5月の、昭和生まれのビルメン王のガジェット所感を述べはじめることから始まるブログ配信記事です。
学生さんに対しておっさんが「学ぶ」ということと受験やテストの対策をするということを峻別することが大切だという話をします。
iPhoneやMacやiPadの定期アップデートがありました。
そして、手持ちのiPhoneでフリック入力をしたところ、いきなりiPhoneが喋り出したので驚きました。
どうやら、文字入力するたびに、その「あ」とか「の」「さ」とかいった音を丁寧に拾ってくれるのです。
高速に入力すると、「本日はお日柄もよく」といった文章を辿っていきます。
最初は驚いただけなのですが、そのうち耳障りになりまして、仕方なしに音量を最小にしてしばらくごまかしていたのですが、ようやく、その設定解除の方法がわかりましたのでここに気しておこうと思います(2019年5月現在、iOSのバージョンは、12.3.1です)。
iPhoneホーム>設定>一般>アクセスビリティ>スピーチ>入力フィードバック「文字」を解除(オフにする)
これで、勝手にiPhoneが喋り出す仕様(文字入力の際に、入力したそばから入力内容が読み上げられるという機能)をオフにすることができます。
さて、iPhoneやiPadはこれで静かにすることができますが、静かにならないのはお子さんの、特に進路を真剣に考えている親御さんの勉学面における心のざわつきやご心配の心境のほうです。
特に、小学生のお子さんをお持ちの保護者の方々より寄せられる、「(公立)高校受験で必要とされるのは、主要5教科(国数社理英)が満遍なくできる学力プラス副教科(体育美術音楽技術家庭)を含めた内申点含めてできる学力であるが、大学受験においては、文系理系に大きく分かれ専攻も細分化されていくのに、例えば中学校において全ての科目を満遍なく勉強することに特段の意味を感じない、それならば中高一貫校に行かせて専攻とは関係ない無駄な科目の勉強は縮小するかスキップした方が良いのではないか」とような話です。
はっきり申し上げましょう。
中学の、義務教育課程として「認定」されている程度の中学の教育課程で科目ごとに苦手だ、などとおっしゃるお子さんがいらっしゃるのであれば、それは「勉強」が向かないので別の道で身を立てていただいた方がよろしいかと思います。
確かに、高校受験は、国数社理英の5科目が、「均等配点」で争われます。
一方で、大学受験は、英数国の配点が大きく、全ての科目において、できる、オール5を目指す必要はないということになります。
では、高校受験での「広く浅い学習」は全くの無駄なのでしょうか。
筆者は、そのようには全く考えません。
副教科、などという言葉のいかに卑屈なことでしょうか。
2011年に亡くなるまで、筆者も毎日使っているこのMacやiPhoneを開発し改良し続けたアップル社の創業者にして伝説的CEO、膵臓癌で亡くなる直前まで世界を変えたいと願ったスティーブ・ジョブズと言う人は、自分の人生の中で、大学を休学して、そしてやめたくせに大学構内をぶらついて興味のある授業に勝手に出ていた数年間こそが、自分の人生の中で最も素晴らしい瞬間のひとつであった、と語っています。
ここで、タイポグラフィ、という文字を美しく場面に応じて表示する技術やセンスに触れる講義に出会えてそこに通い詰めたことが、これだけ世界の物書きやデザイナーに、いろいろな文字体や書体やフォントが受け入れられている現代に通じているのです。
Windowsは、Macを真似ただけだから、と言った、あの話です。
ジョブズ自身も、「その時」は、将来世界を変える影響力を持つとは当然思わずに、流れ重視で、身をまかせるように、興味の行くまま「学んで」いったと言っています。
教育とは、本来そのような自由な発想の元に行われるべきものです。
「稼げるから」「役にたつから」「モテるから」
このような原因結果論をあらかじめ振りかざす予想屋とは、こと学問においては適切な距離をとって近づかないことが重要だと思います。
日本のストーリー漫画の実質的創始者であります故手塚治虫先生は、大阪帝国大学医学部を出られ、医師免許を持ち医学博士という、れっきとした医者です。
医者なんですけど漫画が好きで好きで、それを職業、生業とされました。
しかし、彼の医者としてのプロの目により、名作「ブラック・ジャック」は生まれましたし、難病奇病や手術の詳細までを「表現」することが可能になったわけです。
医学の知識や素養を、表現の世界に生かしたわけです。
これも、スティーブ・ジョブズの言う「コネクティング・ドット(点と点がつながる)」ということの一例でしょう。
どうぞ、そういうことですので、自分が主体的に「学ぶ」という大きな概念と、他人によって評価される目先の「受験」とか「テスト」「内申」といったものについては切り分けて考えていただければと思います。
勉強に全く向いていないのであれば殊更ですが、大抵の子供達は、興味のある分野については大人が驚くスピードと集中力で「習得」していきます。
小賢しい受験のテクニックより、鉈(ナタ)の切れ味、といった塩梅でざくざく知識の海に泳ぎだし、余計な知識技能を含めて生きる力として得てくるものなのです。
現役の高校生から、自分は理系に進んでプログラミングやりたいので、古典や漢文の授業とか苦痛で全く身が入らないのですが、という相談を受けました。
筆者はいい大人なので、その場では適当なことを申し上げてごまかしておきましたが、質問を一般化したものに今こそ本音で回答するとなると下記のようになります。
少々口が悪いのはご容赦ください。
プログラミング?
そんなたかだか数十年程度で激変する予測変換不能な言語に挑戦しようとする人間が、過去の偉大なご先祖様たちが考案して、漢文なら3,000年、日本古典なら1,500年はざっと受け継がれている世界の知識の至宝に対する、それがお前らの礼儀か?
ほんの少し前まではC言語と言われていたのが、C++が出てきて、Javaが一位になったのもつかの間、今はPythonやPHPが一気に首位に躍り出ようとしている、そんな数年来のプログラミング言語の世界の激変ぶりを見ている者が、仮にもそんな言語使いになろうと言う人々が、数千年使い続けられて時の試練とその時々の浮気がちな人々に支持され受け継がれ続けた、そんな人間が人間に対して物事や思想を伝えようとしている優れた道具「言語」の本質を体現している最強コードの漢文や古文に触れようとしないなんて、控えめに言って、バカなの?
仮にも言葉を操り他人と自分を鼓舞して生きていこうとするのであれば、日本語はもちろん、古文漢文、英語にドイツ語フランス語スペイン語に北京語、ラテン語、ヒンディー語くらいまでは欲しいと思います。
19ヶ国語を操ったという、和歌山の生んだ天才、南方熊楠先生の例もあるように、向いている人間にはいくらでも学びの成果は得られるのです。
そういう、自分がどこまでいけるかの絶対音感、絶対距離を見極めることも、学習の、初等学問における重要な役目や機会だと思っております。
このように、学習における一つの一定の到達点である「テスト」「受験」において必要となる知識や技能と、学問というものの本質を混ぜて考えると、非常に無駄な、上記のような悩みになっていくのではないかと思います。
数学なんて、人間がお金を発明して社会性を身につける前からざっと1万年以上使われている、世界共通言語プログラムなのです。
そのような、本質的な理解に届かなくても十分ですので、手前の義務教育から、少し我慢して取り組んでもらえればと思います。
誰でも自分基準で大きく伸びる、飛躍する伸びしろを持っています。
自分の興味に大いに触発され、自分を鼓舞して、できるだけ他人と比べず、自分自身を基準にして、自分基準で大いに学んでいってもらいたいと思います。
料理は化学実験でもあり、漁業は水産資源研究、農業は生物学です。
サッカーや野球だって流体力学であり、スポーツ医学でもあり、戦術、戦略論、ゲーム理論など多種多様な学問の宝庫です。
学習するとっかかりやモチベーションに「受験」なり「テスト」のわかりやすい成果を持ってくることは大いに結構であり、その成功体験がモチベーションになるということは確かにありますが、勉強というものと、テストということには大きな概念上の違いがあるということが少しでもわかっているか否かで、学習の効率というものや成果については大きく違ってくるのではないかと思っています。
本日は非常に雑駁な話になりました。
このような話をこのたび、実際のリアルな講演の場で話す機会をいただけることになりまして、汗顔の至りです。
実は、古文は英語並みに苦手だった(なので話ごと丸覚えした)、かつモテなかった筆者からは以上です。
(2019年5月27日 月曜日)
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