人間力を鍛えるためには強烈な前向きの圧力をかけることが必要だと思う件です(2019/10/28)

教育とは前向きの圧力である

おはようございます。

2019年10月の教育、要するに人間力を鍛えることに関する配信記事です。

人間力を鍛えるためには、強烈な「前向き」の圧力をかけ続けることが絶対必要だと思っていまして、これは当人にお節介と言われようがうざったいと言われようが、とにかく必要な人間力の養分補給だと思っていまして、食べる方がそのありがたみに気づくのが後になったとしても、必要な時期に、必要な関わりを持たないと人間力の滋養には至らないのではないかと思っています。

この圧力という、どちらかといえば積極的にも消極的にも取れる字句を使うのにもわけがありまして、こういう概念を、「愛情」とか「世話」とかいったその字句そのものに良い意味が混ざっている言葉を使ってしまうと、本質を正しくわかってもらえないのではないかと思って(危惧さえして)いるのです。

すなわち、圧力とは、当人が嫌だと思っていても、ある意味無理やりやらせる「勉強」とか「学習」とか、朝早く起きなさい、朝ごはん食べなさい、歯を磨きなさい、挨拶をしなさい、風呂に入れ、よく噛んで食べろ、年長者は敬え、親に口答えするな、卑しい真似をするな、ならぬものはならぬ、といった躾や指導、そして説教の類ももちろん入り得ます。

もちろん、褒めることや認めること、も多分に含まれるのですが、当人がやっていないのに無理やり褒めるということもまたおかしな話であり、あくまでも、当人の努力や取り組みを引き出すためにかける前向きな圧力や振る舞い、そして世話焼きや指導、ということになります。

これこそが、「教育」の本質であろうと思いまして、どこにやる気のスイッチがあるかなんて、子供だろうが大人だろうが、本当に千差万別であるのですから、多く試してうまくいったものをとりあえず類型化しつつもいつも新しいことを試し続けるくらいしか有用な解決策はありません。

そして、「こうやっておけばOK」という固まった指導方法が確立してしまった瞬間、それはいきなり陳腐化します。

必勝のノウハウも、自分で「必勝」などと銘打ってしまった瞬間、いきなり「愚策」に逆戻りするような事象は、筆者も当年45歳になるまで、随分と見てきた気がします。

しかしながら、いつも最新ハウツーバージョンに触れていなければ時代に遅れていってしまうということではございません。

時代が変わっても、悩み生きてそして死ぬという人間社会は不変のものでありまして、おそらく人間の心の中は100年前も、1,000年前も、10,000年前も、そんなに心象風景としては変わっていないのだと思っています。

電子デバイスに囲まれ、大量の情報が一瞬にして脳に届くこの2019年令和元年の時代になっても、それでも人間が対応できることはそんなに変わりはなく、本質というか豊かに生きることができる方法そのものはあまり変わっていないのではないかとも思うのです。

リベラルアーツ(教養)

リベラルアーツという学問領域の言葉がありまして、これはもともと、教養という学問分野のことを言っていたわけですが、日本の大学教育の中での教養学部とは、専門教育に上がる前の、大学モラトリアムの時間、といった「悪い」意味がまとわりついてしまっておりました。

筆者も、「教養」学部で2年間をそれはもう、遊んで暮らした自由と放埒の日々を思い出しながら振り返るのですが、覚えているとすれば、毎週行くたびに変わっている大学教養部の「折田先生像」の新しいクリーチャーぶりを見て、横の生協で唐揚げ定食(450円)を食べて講義には出ない(そもそもどの教室でどの講義が行われているかもわからない)というようなダメ大学生であったわけですが、それでも、リベラルアーツという言葉に込められた「真の教養」というものには、「専門教育」の前に学習する一段低い教育といった意味でない、真の教養という意味を感じておりました。

最近までの多くの大学を主流とする日本の高等教育機関は、その存在意義を「役に立つ人材」を育てることに当てていたようですが、筆者の入ってそして(運良く4年で)卒業できた大学はそういうところから当時も(今はよくわかりません)一番遠いところにありましたので、なるたけ早く専門教育を行い、その専門のスペシャリストを育てるのではなく、長い人生において、どこかで突き詰めた良さを発揮できる、どちらかといえば大器晩成型を歓迎するという風潮がありました。

で、それを体現する「変な」「変わった」教授陣や大学職員陣を、確かに抱えておりました(繰り返しますが今はよくわからんです)。

筆者の周りにおいても、大学入るために1年や2年の「浪人」という強化学習期間を持ったものや、加えて入学後も学部2年、修士2年の修業年限をはるかに超えて勉学が好きで、学部の6回生とか、修士の3回生とか、そういった「勉強好き」のものがうようよいましたが、そういった方々が自由と放埒の日々を過ごしながら、少なからず親を心配させ、就職無「理」学部といった賢者の学び舎で、研究にいそしむという良さもあったわけです。

結局、人間を育てるということであり、大学や高校という教育機関の一番の効用としては、何か本当にやらないといけない分野が現れた際に、こうした人材プールやネットワークから、これぞという人間を洗い出す、というような、人間と人間を引き合わせるという作用が一番大切なのではないかと思っておりまして、これが、一番、「信用に足る」人間を引き合わせる、見つけ出すためのコストがかからず外しが少なく将来長く一緒に仕事なりプロジェクトなりが遂行できるということであろうという結論です。

明らかに、「カネでは転ばない」「正直」「率直」そして加えるならば「頭が良い」「体が動く」「営業センスがある」といった要素を加味して人は人を選ぶわけですが、このようなコミュニティに多くアクセスすることができるかということ自体が、教育における一番大切な要素ではないかと思っておりまして、「わからないことを聞ける人」をより多く持ち、ある材料で積極的に「自学」できる人が最強であろうという結論になっています。

この両方の根本的スキルを身に付けるためには、ただ優しく生暖かく見守っているだけではダメで、そうやると結局、子供は動画ばかり口を半開きにして見ているだけになってしまうので、積極的に手を動かし自学ができること、そしてわからないことをそのままにせず自分の興味に応じて飲み込まずに他人に問える対外発信力の双方を鍛える、そのために、前向きな圧力をかけ続けるという「教育」が必要になる、そういったところでしょうか。

そして、「教育」を与える方も、「教育」が当然自らにも必要であることをわかっている、この方がはるかに与えられる方の受け取り方が違うというのもようやく最近わかってきました。

公文の算数の分数の足し算引き算掛け算割り算ならば、一緒に親もやってみましょう。

以外に、子供達の計算速度の速さと正確さに驚きます。

筆者などは、ちょっと闇練してから子供に見せて威厳を示しましたが、例えば九九の掛け算などは、99から11まで逆に言ってみる、というのを夜中コソ勉してから披露することなどをお勧めします。

ガミガミ言うよりよほど「おおーっ」と言われて尊敬されること間違いないです。

教育とは、これからを生きる全ての人に必要なスキルであると思いました。

それでは、今日はこの辺にいたします。

営業センスのないこちらからは以上です。

(2019年10月28日 月曜日)

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