パブリックドメイン(著作権切れ)の名作

著者の死後50年が経過してパブリックドメインに帰した名作を使い自己表現を筆者もしてみむとてするなり

おはようございます。

2019年10月の、令和の時代のはじめに名文を紹介します。

著者の死後50年が経過してパブリックドメインに帰した名作を使い自己表現を筆者もしてみむとてするなり(紀貫之「土佐日記」より)という記事です。

中島敦「山月記」ですが、著者死後50年が経過しており、いわゆるパブリックドメイン(public domain、公有)に帰った著作物ですので、知的財産権が発生していない状態または消滅した状態にあります。

しかしながら、著者の人格権ほか他の権利には十分配慮尊重していかなければならないことは当然のことであります。

中島敦先生は、わずか33歳でこの世を去られた夭折の大文学者ですが、それゆえに、この山月記は高等学校の国語の題材として、今でも読み継がれている名作です。

原文の二次利用を行うにあたり、当方で改変した部分は赤文字(あかもじ)としておりますので合わせてご参照ください。

鎮西(ちんぜい)筆者(ひっしゃ)は博学才穎(はくがくさいえい)、平成年、若くして名を虎榜(こぼう)に連ね、ついでメガバンク銀行員(ぎんこういん)に補せられたが、性、狷介(けんかい)、自みずから恃(たの)むところ頗(すこぶ)る厚く、賤吏(せんり)に甘んずるを潔(いさぎよ)しとしなかった。
いくばくもなく銀行を退いた後は、故郷(こきょう)福岡市に帰臥(きが)し、人と交まじわりを絶って、ひたすらブログに耽(ふけ)った。
下吏となって長く膝(ひざ)を俗悪な大官の前に屈するよりは、ブロガー、ユーチューバーとしての名を死後百年に遺(のこ)そうとしたのである。
しかし、文名は容易にらず、PVも伸びず、生活は日を逐(お)うて苦しくなる。
筆者は漸(ようや)く焦躁(しょうそう)に駆られて来た。
この頃ころからその容貌(ようぼう)も峭刻(しょうこく)となり、肉落ち骨秀(ひい)で、眼光のみ徒(いたずら)に炯々(けいけい)として、曾(かつ)て第二帝国大学に登第(とうだい)した頃の豊頬(ほうきょう)の浅黒き少年の俤(おもかげ)は、何処どこに求めようもない。…(中島敦「山月記」より)

面白くなってきたので、もう一つ行きます。

次は、太宰治「走れメロス」です。

こちらも、著者の死後50年経過したことをもって、「青空文庫」において誰でも読むことができます。

筆者は激怒した。
必ず、かの邪智暴虐(じゃちぼうぎゃく)の教授を除かなければならぬと決意した。
筆者には博士号学術論文の良し悪しはわからぬ。
筆者は、田舎墓多学生である。
大学にはろくに行かずボートを漕いで暮して来た。
けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。
きょう未明筆者琵琶湖河畔の合宿所を出発し、野を越え山越え、十里はなれた此この京都大学祭にやって来た。
筆者には父も、母も無い。
女房も無い。十六の、内気な妹と二人暮しだ。
この妹は、村の或る律気な一牧人を、近々、花婿(はなむこ)として迎える事になっていた。
結婚式も間近かなのである。
筆者は、それゆえ、花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる大学にやって来たのだ。
先ず、その品々を買い集め、それから都の大路通や百万遍をぶらぶら歩いた。筆者には竹馬の友があった。
水谷康弘君である。 …(太宰治「走れメロス」より)

もともと少ない読者のうちの、さらにまたほんの一部の読者の方々にしかわからないネタを差し込んでしまい誠に申し訳ございません。

しかしながら、不覚にも、続きが読みたいと思ってしまいました。

さすが、名文の書き出しの力は違います。

このように、2019年令和元年の時代には、触れようと思えば簡単に、ほぼ無料もしくは極めて低いコスト(時間や費用)でたどり着くことができ、高校受験や大学受験においても、「情報がない」ということで困ることなど、「適切なコーチングをして親身になって相談に乗ったり励ましたりしてくれる大人や仲間」がいる限り、全くないと言い切れると思っています。

かつて、「歩いて4キロメートル(1時間)」の街のビル一棟まるごと書店であったという、「ブックセンター」に出向き、大学受験の学習参考書コーナーから、どれが良いのかを選びながらその辺の別の本の立ち読みに耽ってしまいあっという間に数時間が経過し、立ち読み本を読むのに支える左手の肘の部分が固まった、というような原体験を持っている筆者などにすれば、非常に「いい」時代になったと思う反面、知識にしろ快感にしろ、何でもすぐ得られてしまう現代の世相については、若干の違和感なしとしません。

いいところは積極的に取り入れ、そしていつも時代にも必要である「自分で学ぶ」「自学」のスタイルと効用については、常に口を酸っぱくして自分に対しても言い続けていこうと思いました。

水谷康弘君の没後、満13年が経過し、筆者は45歳になりました。

毎年、自分の誕生日を迎えるたびに、彼の没後の年数も重なりますので思い出すのに都合が良いです。

亡きあちらの世界の友へ。私は今この瞬間も生きています。もちろん次の瞬間、何が起こるかわかりません。生きてるかもしれないし、さっくり死ぬかもしれません。しかし、それでも私は今確かにここにいて、君のことはときどき思い出します。だから安心してほしいです。君に見られていると思うと背筋が伸びます。 これからも、よろしく頼みます。



最後はオリジナルの文章で締めさせていただきました。

こちらからは以上です。

(2019年10月27日 日曜日)

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