絶対権力の出現法則

絶対権力は絶対に腐敗する

(2020/02/24)危機的な時に絶対権力ができあがることを世界の歴史の事例から考えてみました。

おはようございます。

2020年2月の憲法学者の端くれであり、大学の法学部での専門家庭で唯一の「優」をもらったのが「憲法」であるところの筆者が論じる憲法学です。

憲法で論じることを、乱暴にざっくりと申し上げますと大きく2点に分けられまして、一つは、人間が人間であることから当然にもっている権利「基本的人権」にかかるところと、もう一つは、その人権をきっちりできるだけ守るために国家権力をどのようにコントロールするかという「統治機構」に分けることができます。

そして、その目的である「人権」を守るためにどのような国の作り方や運営方法をやるか、というのが統治機構の面白いところであり、広義には、天皇、平和主義といった考え方も、この「統治機構」の一つのあり方として考えるのが自然だと考えております。

そして、天皇陛下におかれましては、憲法学的には、その天皇陛下及び皇族の方々の基本的人権を極限まで制限してもなお、日本国という国のあり方の根本を背負っていらっしゃる方々として、日本国憲法第一章に天皇の章を設けているわけです。

そして、国際紛争の解決手段としての戦争には訴えません、という有名な第9条に至るわけですが、そこから、人間が人間であるために必要な自由や権利というものを、「基本的人権」としてカタログのように例示していくという流れになっております。

そして最後に、この国民の権利をもっとも、最低限担保し得る統治機構原理として、三権分立に基づく立法(国会)、行政(内閣)、司法(裁判所)という機関のできることが記載され、最後の最後に地方自治ができるということになります。

さて、この「国を最終的に代表できる最高度の権威はどの地位か」という話になりますと、王国では女王や天皇、という地位になりますし、そういうものがない共和国系の国であれば、国家主席とか大統領、とか、大統領の上に最高指導者、みたいな言い方をする「大統領より上の」権威があるという国もございますが、大体において、この国を代表する権威は、国内的な実務はあまりやらないということで権力の分散を図っている場合が多いです。

この、最高度の対外的権威という大統領職と、国内的な行政権を一手に担う首相職を、同一人に統合させたという顕著な例が、かの第二世界大戦前夜の総統、ヒトラーの登場でありまして、この「総統」という地位は、ドイツ語Führerの通り、最高指導者という意味でありますが、実際に、授権法という、国会からの白紙委任状を貰って議会を解散させた後は、文字通り何でもできる、古来の絶対王政など比較にもならない権力集中が行われたのです。

ですので、当時としては最高度に民主化された憲法をもっていたはずの、ワイマール体制によって、史上最高度に濃密になってしまった権力機構が生まれてしまったという、権力の相互牽制がない時代があったというわけなのです。

これが、たかだか70数年前に起こったこと、であるというのが人間社会の面白いところでございまして、最近でも、任期のない(つまり無期限の)中国の国家主席とか、大統領の連続3選は憲法で禁止されているので、一旦首相に「降りた」上でさらに大統領に当選し、さらには憲法を改正して終身大統領職なる地位を創設しようとしているソヴィエト社会主義共和国連邦の後継国家など、世界の人類の人権を守るためにどのような統治機構を良しとするかについては、未だ明確な正解はなくて、世界中の人間が試行を繰り返しているというわけなのです。

コロナウィルスを防御するには、外国からの検疫の強化など、自国民を守るためには他者他国民の人権を制限しないといけない場合がありまして、これは自国民同士の生命財産といった権利がぶつかり合う場合にも同様に適用されます。

不特定多数が集まる場所においてのイベントの中止や延期、時差出勤の徹底など、国民の生命と財産を守るという大義の中、いろいろな自由や権利が事実上制限され、そして経済も停滞しGDPは急速に下がり、多数の国民生活に多大な影響が出て成長戦略も大きな曲がり角を迎えることになりましょうが、それはこれだけ世界の、世の中全体が高度に発達したということの証左でもあると考えれば、悲観するだけではなく、その中からゼロリセットで人間が幸福に暮らすためにはどのように振舞えば良いのか、効率を超えた幸福な人類社会像とは何かというようなことを考えるのにはまたとない機会なのかもしれません。

個人的には、言葉の定義の話になりますが、ある人に教えてもらった信用と信頼の違いが今後の世界には凄く重要になってくると考えています。

すなわち、信用というのは「エビデンス」が必要なものであり、コンプライアンスとかデューディリジェンスとか、そういった客観的な証拠による安心感や権威付けが必要なものであり、これまでのビジネス社会や議論では必須の信用補完機能でありましたが、今後は、信頼という「エビデンス不要」な人それ自身が持つ人間力といった尺度が、プライベートの領域を超えてビジネス社会においても決定的に重要になってくるという気がしてきています。

それは、筆者が以前、「評価と評判」という対比で論じました、評価は文書化されたエビデンスを必要とするものであるが、評判はそれにかかわらずエビデンスがないまま厳然と広がっていく、といったことに似たことがあると感じました。

今後は、信頼と評判に即した研修制度、信頼と評判に即したフラットなチームづくりの必要性が増していくことでしょう。

コロナウィルスによる外出、イベント自粛により、閑散とした街中を歩きながら、そんなことを考えた次第です。

それでは、本日の記事は以上です。

(2020年2月24日 月曜日)

(2016/09/19)評価より評判を大切にしたいと思うようになってきたという話です