(2021/02/28)女性の社会進出といいますが日本には女性が主役だった時代もあったという話をします

▼女性の社会進出というキーワードが叫ばれる令和の日本の世の中であり、二回目の東京オリンピックの最高責任者にオリンピック通算7回出場の、まさに五輪の申し子、その名前も聖火にちなんだ聖子さんという方が就任されたり、女性初の内閣広報官に飲み会を断らないと豪語されていた女傑が就任されたりしています。しかしながら、前者は、2014年ソチオリンピックのときの打ち上げ懇親パーティーで目当ての男子フィギュアスケート選手に接吻を迫ったとか、後者は断らない飲み会の中には現首相の息子さんがお勤めの放送メディア会社の許認可にかかる違法な、法で禁じられた接待、饗応を受けていたといった状況証拠があり、それぞれ就任早々多難な船出となっているようです。

▼時代は一気に日本のあけぼの、古代日本に移りますが、日本の歴史教科書で日本という国の形がようやく定まってきたなというところを学術的に一番古いところにさかのぼったところに出てくるのが推古天皇(推古女帝)です。推古天皇は、確かに中継ぎ、ショートリリーフのつもりで即位したのかもしれません。摂政として、本家本命の厩戸皇子(うまやどのおうじ、聖徳太子とも呼ばれる)がついていたし、当時の豪族最強格である蘇我氏の権勢のもと、盤石の体制でした。しかしながら、筆者の勝手な推測で申し上げますと周囲の「予想」をよそに、当時の平均寿命をはるかに超える長寿を達成してしまい、なんと、後継者であるはずの摂政聖徳太子を先に亡くし、蘇我氏の一族の内紛にも巻き込まれ、晩年は厳しい感じだったと思われます。

▼その中で、権勢を誇った蘇我入鹿(そがのいるか)を、こともあろうに宮殿で斬り殺してしまうという最悪の人物が現れました。その人とは皇族の中のトップオブトップ、皇太子に等しい力を持つ、当時3人しか名乗れなかった皇位を継ぐことができる「大兄」の名前を許された一人、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)です。こともあろうに、中大兄皇子は、蹴鞠の会で呼び寄せた隠者にして暗殺実行部隊である素性の知れない中臣鎌足(なかとみのかまたり)と通じて、国家の大臣(おおおみ、筆者独断では当時では内閣総理大臣と最高裁判長長官と衆議院議長を合わせたよりも凄い位)である蘇我入鹿を、宮中の天皇隣席の公式行事の場で刺し殺すなどという破天荒なクーデターを行い、さらに親の蘇我蝦夷も軍を差し向けて殺し、蘇我氏嫡系を根絶やしにいたします。

▼そうして、自ら殺人の下手人になってしまった中大兄皇子、自分がそのまま天皇には流石になれない、ということで、立てたのが、自分の母親で、皇極天皇、そして一つ天皇をまたいで斉明天皇としてリリーフをしてもらいます。リリーフと云うより、自らの殺人者としての禊の期間ではなかったと筆者は邪推しますが、その斉明天皇のときにも、積極的な対外政策を行い、白村江の戦いなど膨張政策に走った日本は、大敗して一敗地にまみれたりしているのです。なんだか明治維新から226事件を経て太平洋戦争敗戦まで至る近代日本の歴史とかぶるような気がするのは私だけでしょうか。

▼斉明天皇もなくなり、ようやく天皇に即位した中大兄皇子は、天智天皇となります。しかしながら、天智天皇は、ふらりと狩りにでかけたけど帰ってこなかった、沓だけ落ちていた、というような謎の死を遂げます。人を暗殺してきた人は、やっぱり暗殺まがいの不慮の死を遂げるのではないか、ここに日本人が強く信じる怨霊というか振る舞いのとおりの結果に人の人生はなるものだという原始的な信仰の端緒を見ることができます。

▼そうして、天智天皇の次女であり、のち、天智天皇から皇位を受けた大友皇子(皇位継承をしていたかどうか定かではなかったですが明治時代になって、皇位継承をしていたという政府の「認定」があり、第41代弘文天皇となりますがそれは1,500年後の話です)と日本国中を戦乱の渦「壬申の乱」に巻き込んだ大海人皇子の嫁となった持統天皇の時代がやってきます。戦に勝ち、天智系を根絶やしにした大海人皇子は、天武天皇となり、国号を日本に定めますが、皇后となった持統女帝との子の草壁皇子のほうが先に死んでしまうという不幸が訪れます。持統女帝は、その草壁皇子の子供、つまり孫の男の子が文武天皇として即位するまで、おばあちゃんとしてがんばり抜くのです。

▼最後、文武天皇に皇位を継承し、まさにおばあちゃんから孫の男の子への承継、殺人者天智天皇の娘として生まれ天武天皇の妻となり皇后、そして天皇となり、実に数十年間その皇位にあり、天智天皇、天武天皇それぞれの血を引く嫡子の孫の男の子へようやく重いものを渡し終えたその時、持統天皇はその身を自ら滅ぼし、「神」としてその身を火に焼き(初めての火葬)、天上に昇ったのではないかと推測します。

▼どうです、女性であれば、一般人から天皇の妻、つまり皇后になることができますし、皇后になったあとで、夫である天皇が亡くなればショートリリーフとして天皇になれ、さらに、自ら生んだ子供が皇子であれば、そのまま居座り、その子供に、堂々と皇位を継承できる立場になるのです。これは、男性では決してできない至高の位へのルートです。このルールは、古来からのもので、持統天皇というまたとない事例もある以上、令和の今でも文句なく通用するルートです。確かに、令和の現在の皇室典範は、天皇位継承権を男子に限っておりますが、これは、こうした古来の事例に鑑みると、あまりにも、女性優位に過ぎることから、時の叡智を結集して整備されてきた名残です。したがいまして、今の皇室典範等のルールは、最大限劣位におかれている男性に対して最大限の配慮をしているもの、と言える面もあるのです。

▼簡単にジェンダーフリーといいますが、この日本では、長い歴史に裏打ちされ、確立してきた男女平等制度があるということを知ってもらいたく、一文書きました。ではまたごきげんよう。

(2015/10/08)日本史上最初の女性の天皇である持統天皇のおはなしです

おはようございます。 2015年10月の歴史に関する筆者の配信記事です。 日本の天皇で女性は4人おります(あくまで通説・公式)が、小倉百人一首の2番目に採用されたのが…