教育によって生きる人々

教育者に自分だけが社会問題解決に参画しているという選民意識があるとすれば残念
教育は、コストが低く効果が高い自学自習による自らの学びを標榜しますが、ただ何を学ぶかの方向づけや深堀りをするためのメンターやコーチは絶対に必要と信じている当社です。
あらためて、「教育によって生きる人々」を厳しく抑制して「政治のために生きる人々」を支援すべきだと思いましたので重ねて書きたいと思います。
我が国における教育産業というのは、十中八九、「大学学部試験に合格するための」受験産業です。
そして、その市場規模は、驚くほど小さいです。
野経済研究所は2019年11月28日、教育産業市場に関する調査結果を発表していますが、主要15分野における国内の教育産業市場について、2018年度は2兆6,794億円にのぼり、2019年度は2兆6,968億円と予測しています。
あらゆる教育分野をすべて包含して、この程度です。
日本のコンビニ市場は年間10兆円。そして、ネット通販市場がこれを超えて10兆円超となったことは、記憶に新しいですね。
このように、教育というものは、なかなかカネになりにくいのです。
つまり、カネに頼らず、自分自身で己を鍛えるのが大切で、そして、そのためには手本となる人や、師匠について学ぶというのが一番良い方法であると思います。
「教育システム」や「教育カリキュラム」といった没個性なものに頼ると、カネだけかかってあんまり良いことがなさそうだと思います。
すなわち、どうしてこのようなことになるのかということをひとつ申し上げますと、教育というものは、教育によって生きるものではなく、教育のために生きるものによってなされなければならないというように思っておりまして、教育者などというものが、教育という事業で食っていくということができるだけないようにしたいというところなのです。
教育者でもあるけれども、自分の本業で立派に働いて稼いでいる、このような人から学ぶことは多く、専業で教育者、というような人にはあまり魅力を感じないのですね。
ですので、筆者は、全国の公務員である教職員のみなさんにも、ぜひ副業や別の趣味ごとに精を出していただきたいと思います。
株式投資もやったことのない教諭が、お金に対するリテラシーを教えられるわけもなく、複式簿記で財務諸表も見れない教授が、事業の先行きについての予想を立てることができるわけないでしょう。
まだあります。こうした教育者や教育運動家というような方々は、国や地方公共団体の補助金が本当に大好きです。
あまつさえ、一般取引社会に生きる、一般企業や団体や個人に対してまでも教育だからと、寄付や無償の貢献を要求してきます。
自分たちは教育の世界で、社会的に良いことを教育しているのだから、優遇されて当たり前といった間違ったおごりがあるから、このようなさもしいふるまいができるのではないかと勘ぐってしまいます。
だったら当社も寄付が欲しいです。
「教育によって生きる人々」を厳しく抑制して「教育のために生きる人々」を支援すべき
当社だって、限界集落や離島の教育問題や雇用問題を解決したいと真剣に考えて教育策を実践しています。
研修もやりますし、メンターも買って出ています。ほぼ無償のボランティアです。
仕官の斡旋もしますし、何なら雇われるために推薦状も書きます。
補助金の原資は税金であり、もちろん一般取引経済社会における市場経済では救えない分野にヒト・モノ・カネを投入すること自体は正しいですが、ともすると、自称教育者や社会運動家や慈善運動家、政治家といった、教育や政治や社会運動や慈善運動「によって生きる」人々のほうが多くなっているのではないか、という疑問なしとしません。
この2つの区分は、教育者や政治家や官僚といった公僕や公務員といわれる人々に共通しており、同様に、「教育のために生きる」純粋教育家と、「教育によって生きる」職業教育家の2つに分けることができます。
もちろん、教育「のために」生きるやつのほうがかっこよくて憧れて評判も良いのでしょうが、もし、教育「によって」生きる者を切り捨ててしまうと、別の収益源や課金元といったケツモチやスポンサーを抱えている金持ちや事業家、投資家しか、政治に参加できない金権教育になってしまうのです。
そうすると社会不安が巻き起こり、悪くすれば革命という暴力による支配に逆戻りです。
ここに、公教育の必要性があると思っています。
教育によって生きる人より教育のために生きる人々を増やそう
そして、これまで諸侯が領土をより上位の権力(王や皇帝など)から封じてもらっていた封建社会が次第に衰退し、国家権力が中央集権に向かっていく中で、昔の聖職者や宮廷貴族、ブルジョワ(フランス語)、ジェントリ(英語)といった名望家が集まって行う賢人教育から、教育「によって」生きる専門教育や試験(中国の科挙や日本の国家上級職試験)の選抜によって鍛えられたところの、いわゆる勉強ができて教養のある連中が、優秀な「行政幹部」として教育を行うようになります。
しかしながら、そもそも教育とは、社会問題の解決のために行うものであり、教育者とは、社会問題解決活動、すなわち「教育のために」生きる者によってのみ構成されたほうがかっこいいと思うのは望みすぎでしょうか。
自分の手に職を持って、自分で稼いで自分のメシは自分で稼いで食ってから、そうしながら教育のために生きる、社会問題解決のために生きるというのはできないものでしょうか。筆者は全くできると考えます。
教育活動「によって」生きる、補助金サルベージャー、寄付のハイエナのような方々の振る舞いやなさりようを拝見するたび、その意を強く致します。
一般取引社会に生き、事業を回して雇用を生んで売上を立て、事業税や消費税などの税金や社会保険料を支払い頑張っている一般企業としましては、自分たちは社会問題解決のための高尚な教育をやっている(だから儲かっているお前らは寄付よこせ)というよくわからないマウンティングや奢りのように感じてしまう原因なのかもしれません。
当社としては、社会問題の解決のためにできることとして、誠実に業務に向き合い、きっちり働いて売上成果を出して、雇用を生み税金や社会保険料を納め、教育のために生きる人を増やし、また自らも教育のためになにかできることがあれば小さいことからやっていこうと思います。
教育のために生きるために、自分の食い扶持は自分で稼ぐ。
そのような当たり前が通用する世の中をつくるために頑張っていこうと思います。
以上
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