自民党以外の代表選挙にも参加したい
総裁選2021は高市早苗さんに投票しました
筆者は自民党員です。2021自民党総裁選は高市早苗さんに投票しました。
投票チケットを得るために、個人会員年会費4,000円を支払っているといっても過言ではありません。
同じ民主的手段がとられているのであれば、公明党でも日本共産党でも立憲民主党であっても、党員にもなって代表選出プロセスに参画したいのですが、現状これらの政党には党の代表を一般庶民が選ぶ制度がなく、同じ人や仲間うちで20年以上も代表とか委員長とか議長とかいう地位に留まっている事例もあり、残念ながら果たせていません。
そういう意味で、庶民や一般市民に代表を選ぶ権利が曲がりなりにも付与されている自由民主党の総裁選挙にはそれなりに注目しています。
野党がいろいろ言うのは、自党でのプロセスを振り返り反省してからにしてからにすべきかと思います。
理由
さて高市早苗さんに投票した理由です。
個人の思想信条といった点は考慮していません。
かの古代の大宰相、高市皇子を彷彿とさせることが一点。
高市皇子は、天武天皇の第1皇子。
母が九州宗像族の大首長、宗像徳善(むなかたとくぜん、墓は宮地嶽古墳、宮地岳神社に比定)の娘、尼子娘(あまこのいつらめ)です。
壬申の乱では近江大津京を脱出して父に合流し、美濃国不破で軍事の全権を委ねられ活躍した。
そして、母の出自が田舎であったことから、皇族ではなく事実上臣下としての道を歩み、持統天皇の即位後は太政大臣になり、以後は天皇・皇太子を除く皇族・臣下の最高位になった古代日本の大英雄、大宰相です。
高市皇子こそ、実は本当の天皇であったという説もあるくらいです。
天武天皇8年(679年)5月6日に、天皇、皇后(持統天皇)、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、川島皇子、忍壁皇子、志貴皇子は、吉野宮で互いに助け合うことを約束した(吉野の盟約)。10日に六皇子が大殿の前で天皇を拝した。天武天皇が自らの死後に壬申の乱のような皇位継承争いが起こることを恐れたためとされる。この頃から高市皇子は天武天皇の皇子の中で第三の地位とされるようになった。皇女を母にもつ草壁皇子、大津皇子に次ぐ。天武天皇が亡くなった直後、皇太子につぐ皇位継承資格を持つと見られていた大津皇子が謀反の罪で死刑になった。続いて皇太子の草壁皇子が持統天皇3年(689年)4月13日に薨御した。そのためそれまで天武天皇の皇后として政務を執っていた鸕野讚良皇女が翌年(690年)1月1日に即位した。持統天皇である。この年の7月5日に全面的な人事異動があり、高市皇子は太政大臣に任命された。このときから薨御まで、高市皇子は皇族・臣下の筆頭として重きをなし、持統政権を支えた。持統天皇4年(690年)10月29日、高市皇子は多数の官人を引き連れて藤原宮の予定地を視察した。持統天皇5年(691年)1月13日、高市皇子の封が2000戸を増し、前のとあわせて3000戸になった。持統天皇5年(691年)1月4日、高市皇子の封が2000戸を増し、前のとあわせて5000戸になった。持統天皇7年(693年)1月2日に浄広壱の位に進んだ。持統天皇10年(696年)7月10日薨御。『延喜式』諸陵によれば墓は「三立岡墓」で、大和国広瀬郡にあり、東西6町南北4町で守戸はなし。一方で、キトラ古墳か高松塚古墳の被葬者を高市皇子とする説もある。高市皇子の長男・長屋王の邸宅跡から発見された「長屋親王宮鮑大贄十編」の木簡、政治情勢、壬申の乱における功績、母の実家の勢力、莫大な資産などから彼が天皇であったという説もある。
Wikipediaより
高市という地名は、今も奈良の明日香のそばにあり、飛鳥時代を彷彿とさせる由緒ある古名です。
また、日本人と切っても切れない、米、稲を思い出す早苗という名前も素晴らしいです。
そして、第2点は、生物学的に女性であること、です。
このまま日本に女性首相が誕生するというのは、振り返ると権力と地位が一致していたかの持統天皇を彷彿とさせ、なんだか血湧き肉躍る感じがいたします。
アメリカに先んじて、宰相に女性をいただく国に返り咲くかもしれません。
多様性~とか言っている近代合理主義の国々に、そんなののはるか昔から八百万の神々でやってきた日本というものを、見せてやろうと思いました。
まったく個人の資質や主義主張とは関係ない、選定理由でございました。
以上