古事記が信用できる理由

日本書紀は、時の権力者である藤原氏が編纂に深く関わり、藤原氏の意向を強く反映させる形で完成したと考えられます。

その根拠として挙げられるのが、古事記と日本書紀それぞれにおける新興貴族藤原氏の扱いの違いであります。

日本書紀では、崇神天皇以降が詳しく書かれ、藤原氏は蘇我一族によるクーデターを阻止し、天皇を支える重要な側近として何度も出てきています。

あたかも、歴史を元に戻したヒーロー的扱いです。

しかしながら、古事記においては、そもそもその内容は大国主などの神話が三分の一を占め、藤原氏は登場しません。

本当にまったく出てこないのです。

古事記における藤原氏に関する記述は、僅かに「アメノコヤネの命は中臣(藤原氏の出自と日本書記系書物でいわれるようになった!)の連等の祖先」と一言書いてあるのみです。

藤原でもなくその前の中臣。

しかも、中臣から藤原への変遷伝記も怪しいとなります。

このような、藤原氏がまったく登場しない帝紀(古事記)の存在は、往時の天下を取っていた藤原氏を大層不快にさせた事は想像に難くありません。

さらに、日本書紀では、神武東征に付き添った側近の一人として、中臣氏が書かれています。

しかし、古事記では神武東征の一行に中臣氏は書かれていません。

神祇を旨とした中臣氏が、わざわざ帝王の遠征に帯同しても意味はなく、さらには足手まといに等しく無理があります。

どうしても藤原氏が古来より天皇の側近であったことにしたいがために、日本書紀で無理やり付け足した可能性が高いと個人的に思います。

古事記は天皇の指示により、元々は帝紀として太安万侶により編纂されました。

しかし、その内容から時の権力者だった藤原氏の怒りを買い、帝紀は禁書というかお蔵入りとなり、改めて日本書紀として作り直しになったと考えられるのです。

なお、日本書紀には、中国に献上する正史という位置付けもあったようだ。そのため、当時の中国人に読まれることを前提にしており、中国の歴史書に書かれていた倭国王「卑弥呼」の存在だけは、どうしても無視できなかったのだろうと思われます。

この点、日本書紀では、神功皇后が卑弥呼だったと匂わせる記述が出てきますが、古事記にこのような記述は無いのです。

つまり、もともとあった帝紀である古事記を脇に置いて、その後日本書紀として新たに編纂して作り直した理由は、『藤原氏の貢献を強調する。天皇の業績を強調する。神功皇后を卑弥呼に比定する。』、この3つであったと考えられます。

さらに、編纂の過程で、神功皇后を卑弥呼の時代に合わせる必要のため、初期の天皇の没年と在位年をやむなく目一杯長めに調整するという、許し難い改竄をした可能性が高いと個人的に思うのです。

以上