「平成の鑑真」イビチャ・オシムさん逝去
イビチャ・オシム氏死去
イビチャ・オシム氏逝去。80歳とのこと。
時々、日本のライター田村氏が寄稿していたオシム氏の電話インタビューがもう見られなくなると思うと残念でなりません。
最近は体調に関するコメントも増えていて心配でもありましたが、この日が来てしまいました。
日本サッカーにとって、ドイツのクラマー氏を上回る恩人だと思います。
日本代表監督としての仕事が志半ばで終わってしまったことは、日本にとって痛恨の出来事でした。
あのまま、オシム氏の指導でワールドカップ2010年大会を迎えていたらどうなっていたのか、見たかったです。
結果はともかく、その後の日本サッカーのあるべき方向性が強く指し示されていただろうと思うと、これも残念でなりません。
未だにスタイルが確立出来ず、迷走を続けるような事態にはなっていなかったのではないかなと思います。
個人個人のファンタスティックな技術に頼り、日本オリジナルを提唱して、技術を駆使すれば走らずに勝てると思いこんでいた当時の日本に、走ることの大切さ、守ることの献身を改めて伝えてくれたサッカーの哲学者。伝道師。イビチャ・オシム。
ボールも人も動くサッカーは、ダイナミックにチームが動き、規律や敏捷性に優れた日本人こそが出来るサッカーだと思いました。
同調すれば強い、その日本人のメンタルにも目を向け、こうあるべきといつも自信を持てと指摘していました。
国際的な立場での日本人への向ける目は、暖かく、本当に日本を愛し、日本のことを思っていてくれたオシム氏に感謝します。
オシムさんが指揮したジェフユナイテッド市原や日本代表は、運動量が豊富な印象が強いが、それだけでなく、無駄なプレイを排して常にインテリジェンスが要求されるサッカーで、観る者の心にも響く戦術・プレイスタイルを追求するものでした。
厳しい言動の一方で、日本を理解しようと努力し、日本人らしいサッカーを模索する姿勢に心を打たれました。
こういった人格者が来日し、日本のサッカーの強化に貢献してくれたことには唯々、感謝しかありません。
とても暖かい、心の広い父親のような目線で選手を見ていた人間味溢れる人でした。
負けた試合のインタビューでは「今日の試合の収穫は・・・・」、とたとえ負けた試合でも必ず何か得るものが試合からあるのだと、前向きにとらえること。
逆に勝った試合では「反省点をあげると・・・・」、と一見辛口評価に聞こえるが、結果より内容を振り返ってみつめること。
何か、人生そのものをレクチャーしてくれている様な人でした。
印象的なオシム語録を挙げますと、「日本のサッカーは、日本人の特性を生かしたサッカーを日本のオリジナル・サッカーとして確立していくべきだ」「例えば技術面にプラスさせてスタミナとスピードもアレンジさせたサッカーとか、具体的な選手を上げれば、パク・チソンのようなタイプの多いチームとか」「対戦相手を決して過大評価してはいけないが、その逆に過小評価もしてはいけない」「普段からの鍛錬なのですよ、ライオンに追われているウサギが足をつりますか?」
などなど、枚挙にいとまがありません。
日本代表監督を務めた外国人の中でも、こと影響力に関しては指折りでした。
ワードカップ予選、本大会を指揮する事はなかったにもかかわらず、当時の代表選手からは賛辞の言葉が止まない、サッカー哲学と言えるようなものを代表に残した指導者でした。自国に戻ってからもサッカーへの情熱、日本への愛着は雑誌ナンバーのコラム、インタビュー等で拝見していました。
まさに、平成の鑑真。
謹んで、イビチャ・オシムさんのご冥福をお祈りします。
合掌。
カネのための指導ではない
2002年夏まで務めたシュトルム・グラーツ(オーストリア)の監督という立場を自ら辞し、約半年間「フリー」の状態だったオシムさん。当然、欧州各国のクラブから引く手あまただったはずだが、日本のJリーグ、そしてそのなかでもけっして裕福ではない市原を選んだ。グラーツの監督を辞任した理由は、欧州チャンピオンズリーグに出場するためのクラブの無謀な選手補強だった。それが、裕福ではなくても高い志をもつ市原での挑戦を決意させた理由の大きな部分だったに違いない。
当時すでに「金満」状態にあった欧州のサッカー。クラブ間の競争は、湯水のように流れ込むテレビ放映権収入を利用して世界中からスターを買いあさり、どれだけ豪華なメンバーを並べられるかにかかっていた。そうした状態が、オシムさんにとって心地よいはずがない。オシムさんにとって何より大事なのは、高い志をもち、その実現のために全身全霊をかけてサッカーに取り組み、大きなことを実現する人間を育てることだったに違いないからだ。
カネのためのチーム
そしてそのとおり、ジェフでは短期間のうちに選手たちの意識を改革し、彼らを生き生きとサッカーに取り組み、「サッカーで生きる」、本物のサッカー選手に生まれ変わらせた。彼らが見せるプレーは理屈なしに見る者の心を打ち、はずむような喜びをもたらした。金満クラブでスターを並べて争っている監督との比較などしてほしくないというオシムさんの気持ちは、よく理解できる気がした。その後、果てしなく続くリハビリ生活のなかで、オシムさんは、「金満化」に進む一方の欧州サッカーをどう見ていただろうか―。
もちろん、巨額投資によって現在の欧州サッカーにはハイレベルの選手が集まり、誰もが夢見るサッカーを実現しつつあるというポジティブな面はある。そのサッカーは、世界中のコーチやプレーヤーが指標として目指すべきものだ。しかしそのバックボーンが、オシムさんのような「魂の指導」ではなく、世界中からかき集めた放映権料という資金であることを忘れてはならない。そうした状況は、多く稼げば稼ぐほどサッカーの真理に近づくことができるという「妄信」に変わり、そしてほどなく、稼ぐこと自体が目的となる。
以上