迷ったら上杉鷹山先生

上杉鷹山が名君たるゆえん

上杉鷹山先生は米沢にいても江戸の細井平洲を生涯の師と仰ぎ、様々な改革を成功させます。

詳細は割愛しますが、質素倹約や殖産興業、藩校・興譲館を軸とする藩民教育などがその柱でした。

その名君、上杉鷹山先生の人柄を示す1枚の手紙があります。ある農家のお婆さんが娘に当てた手紙で、原文はカタカナ表記ですが、ここでは漢字とひらがなを交えて読みやすく表現します(一部抜粋)。

「秋稲の散切(ざんぎ)り干し終(しま)い、夕立がきそうで気をもんでいたら、二人のお侍が通りかかって、お手伝いを受けた。帰りに刈り上げ餅あげ申す、どこへお届けするかと聞いたら、お上屋敷北の御門だから言っておくとのこと。それで福田餅三十三丸めて持って行き候(そうろう)ところ、お侍どころかお殿様であったので、腰が抜けるばかりで、たまげはて申し候(そうろう)。そして、ご褒美に銀五枚いただき候。それで家内中と孫子残らずに足袋くれやり候」

夕立の前、干していた農作物を納屋にしまうのを手伝ってくれた通りがかりの2人の侍が、実は藩主・鷹山とお付きの侍だったことを後で知って腰を抜かすほど驚いたという内容です。お礼のお礼に銀貨をもらって、それで家中の足袋を新調した、とあります。

上杉鷹山先生が家臣一人だけを伴い、お忍びで庶民の様子を見て回っていたことも驚きですが、単に領内をぶらぶらしていたわけではありません。

本当の目的は、その年の米の出来具合を自分の目で確かめようとしていたのです。万一、不作と予測できれば、他処に買いつけに走るなど早めに対処することができるからです。

庶民の目線で物事を正確に見極めようと努めた、ここに名君たるゆえんがあるものと思います。

上杉鷹山先生が舐めた辛苦に比べれば、今の我々の置かれている状況がいかに恵まれたものか、また他者や環境に文句を言うのがさもしいことか、人間とはいかにでも変われるということがわかるものです。

こんなものが400年のちの世に伝わって見ることができる世界でも稀有な国、これが日本です。

上杉鷹山先生、おすすめです。

いつか米沢を訪ねたいと思っています。

以上