熊襲

熊襲(熊楚、クマソ)

呉越が楚に吸収されたのち、秦の始皇帝がその楚を滅ぼして併合。
呉越(楚)の一部が台湾に移住、沖縄、九州、本州の東北まで文化を拡げていきます。
後に、朝鮮半島の加羅、百済が九州の太宰府東(日田)に新百済である邪馬台国を設立、菊池(熊本)を根城にした熊襲と戦闘状態に入る。邪馬台国の一部が瀬戸内海を大阪平野に移動し、明日香村、そして北上し百済大和朝廷を作る、百済の漢字を元に新百済日本書紀を書き始める。
その後、百済系内部のクーデター(大化の改新)あり全権力を掌握した天智天皇により亡命政府百済を救う日本船団を白村江に派遣するも大敗(663年)。故郷を失った百済人は新しく日本を居所と定めて国作りを行うが、敗戦のゴタゴタや唐の介入を招き、新羅系、地方の豪族に支えられた天武王朝に壬申の乱で滅ぼされる。天武王朝は奈良に平城京を築いて70年の栄華を誇り、東大寺に大仏まで作り上げるも、内親王を未婚のまま皇太子に仕立て上げるという愚策(称徳天皇)により天武王朝の皇統が途絶えて天智系の桓武天皇の台頭を許す。桓武天皇は、天武の都である平城京を打ち捨てて京都盆地の北に脱走、これが平安京となり、平安神宮御祭神となって最澄空海という天才を両手に従え奈良仏教界を黙らせて遷都終了。暗殺、破壊活動、そして阿片麻薬の力で手引したのはもちろん百済系の新興渡来貴族の藤原一味(その後摂関家独占)。なので、今の天皇家は、大王蘇我入鹿の殺人者天智天皇の直系ということなのです。
以上すべて妄想です。