武者小路実篤

武者小路実篤の生涯

氏名 武者小路実篤
生年月日 1885年5月12日
没年月日 1976年4月9日
享年 90(歳)
国籍 日本
出生地 東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)
職業 小説家、詩人、劇作家、画家
名言 君は君 我は我也 されど仲よき
1885年(明治18年)5月12日、武者小路実篤は公卿の家系である武者小路家に生まれる。父は2歳のときに結核で死去。

実篤は6歳のときに学習院初等科に入学。朗読と数学が得意で、体操と作文が苦手だった。同中等学科6年のときに留年していた志賀直哉(1883~1971)と親しくなる。

同高等学科時代はトルストイ(1828~1910)に傾倒、日本の作家では夏目漱石(1867~1916)を愛読するようになる。

1906年、実篤は東京帝国大学哲学科社会学専修に入学。翌年には友人の志賀直哉らとつくった「十四日会」で創作活動をする。同年に東大を中退。

1910年、25歳の実篤は志賀直哉らと文学雑誌『白樺』を創刊。これにちなんで白樺派と呼ばれた。

1918年には理想的な調和社会、階級闘争のない世界という理想郷の実現をめざして、宮崎県児湯郡木城町に村落共同体「新しき村」を建設。実篤は農作業をしながら文筆活動を続けた。

しかし同村はダム建設により大半が水没することになったため、1939年に埼玉県入間郡毛呂山町に「新しき村」を建設。ただし、実篤は1924年に離村し、会費のみを納める村外会員になっていた。

1936年、51歳の実篤はヨーロッパ旅行に出発。旅行中に体験した黄色人種としての屈辱により実篤は戦争支持者となってゆく。

1946年には貴族院議員に勅選されるが、太平洋戦争中の戦争協力が原因で公職追放された。

1948年、実篤は主幹として『心』を創刊、『真理先生』を連載。1951年に追放解除となり同年に文化勲章を受章した。

1955年、実篤は70歳で調布市仙川に移住、亡くなるまでこの地で過ごした。

1976年4月9日、武者小路実篤は尿毒症により死去、90年の生涯を閉じた。