武田薬品

和洋折衷の歴史企業

武田薬品工業が好きです。理由は以下の通り。

日本を代表する製薬企業である武田薬品工業。1781年の創業から文化や国を超えて「誠実」であることを経営の基本精神として継承してきた。その精神の実践を体現している3つの施設がある。1つは、創業家の屋敷だった「銜艸居(かんそうきょ)」(神戸市)、もう1つは薬用植物を収集・保存する「薬用植物園」(京都市)、そして貴重な薬学の典籍コレクションを保存管理する「杏雨書屋(きょううしょおく)」(大阪・道修町)だ。

グローバル化を進める武田薬品は240年近い歴史を持つが、この3施設は、創業からのDNAを時代や文化を超えて伝えるための重要な場所である。

一つだけご紹介する。

神戸市東灘区御影は、そうそうたる実業家が邸宅を構える高級住宅地。その一画に、瀟洒な洋館が佇む。武田薬品工業創業家の屋敷であった武田史料館「銜艸居」だ。この邸は1932年(昭和7年)に、創業家の6代目、武田長兵衞氏が27歳で結婚するときに居宅として建てられた。英国ケンブリッジ大学に留学経験のある6代目が、英国の伝統建築様式であるチューダー様式の洋館をベースとしながら、英国郊外のコテージ・スタイルを取り入れた。

こうした建築様式としたのには狙いがあった。施主である6代目は「いずれ武田も世界に雄飛する。海外の得意先を呼んでパーティーを開けるような家にしたかった*2」と、よく語っていたという。その目的通り、1階は、招待客を招く大応接室、食堂、そして主に婦人らが集う応接室からなる。邸内は、近くに屋敷を構え親交の深かった画家、小磯良平の油絵で彩られている。

2階は主にプライベートスペースとして使われた。多趣味の氏らしく、洋館の中に、和室や茶室もあしらわれる。「銜艸居」という邸名は、中国の古典「史記(司馬貞補)三皇紀」より、医療と農耕の知識を人々に伝えた本草学の始祖・神農(しんのう)が、薬草を見極めるために自ら口にしたという伝承から命名された。「銜」は口にする、「艸」は草の意味。交遊のある法隆寺第103代管主 佐伯定胤(じょういん)氏と京都大学総長だった羽田亨氏が関わった。東洋と西洋がうまく融合するこの建物は、今の武田薬品の姿を予見する存在のように感じられる。

1980年に、急逝した7代目の後を追うように6代目が死去すると、主人を失った邸宅は、後を継いだ國男氏が社長のとき、武田薬品が社として買い上げ、現在の史料館として整備された。初代長兵衞の肖像画(レプリカ)や、彼が丁稚奉公から始まり、誠実な商売で事業を大きくしてきたことが分かる古文書など、創業から現在に至る武田薬品の歴史を知ることができる資料が展示されている。

この企業は潰れない。この歴史と伝統、理念がある限り。