李克強死す
中華帝国の終焉が始まる
李克強。親日派で理論派。胡錦濤の後継者として習近平と国家主席の座を争った男。2012年から10年、かの国の首相を務め、そして2022年、ついに政敵習近平によって排除されたエリート。その李克強が、上海の保養施設で心臓発作で亡くなったとの衝撃の報が届きました。享年68歳。くまのプーさんこと、習近平さんが70歳で元気いっぱいなことに比べて何ということでしょう。あまりにも、失脚させられた政敵の死期が早すぎます。
中国(以下、政体としての中華人民共和国と正確に記載)における政治の最大の特徴であり欠陥は、後継者を決める明確なルールがあえて存在していないことです。つまり、人治主義のかの国においては、前任者が後継者を決めるという起点から大きな激しい内部の権力闘争が勃発し、最後の最後まで帰趨がわからないのです。当の争っている内部の個々の権力分子自体も、自身及び自身の派閥が優位にあるのか劣位にあるのか、粛清する側に立つのかされる側に立つのか、全くわからない、それがかの国の政治の現実です。
歴史を振り返ると、1949年にかの国を、(日本に遊学して政治思想を学んだ)孫文が1911年辛亥革命によって正統に成立した中華民国から奪い、簒奪して「建国」した毛沢東とその一派でしたが、1950年代末には、その革命思想による国の維持に早くも行き詰まり、大躍進政策の大失敗に帰結します。この頃すでに毛沢東は失意か自信のなさからか引退モードに入り、劉少奇や鄧小平といった少しは頭が回る穏健な子分に権力を移譲していきます。ところが、彼らの市場主義的な経済政策を、修正主義だとして不満を募らせた毛沢東は、柔軟かつ市場主義に立脚した国民党的な経済政策を続けた劉少奇指導部に対して、怒りに任せて文化大革命という名の大粛清活動を行い、それまでの権力基盤であった学生や下層労働者を巻き込んでの大権力闘争を仕掛けて社会は大混乱に陥り破滅的な状況に至ったのです。
そして、この混乱を抑えるために国防部長であった林彪を登用し、彼の功績を評価して毛沢東は中国共産党第9回全国代表大会(第9回党大会)において彼を後継者に正式指名します。それなのに、わずか2年後にはその彼が自身の暗殺クーデターを首謀したとの罪で、モンゴル逃走中の彼の飛行機を墜落させます。そして毛沢東は、自分の死の直前、今度は華国鋒を後継者に指名しますが、今度は因果応報か、毛沢東の死後、復権を果たした林彪の同志である鄧小平によって粛清されます。
その鄧小平は毛沢東政治の欠陥を教訓に、自らは最高指導者にはならずに早めに後継者を決定し、終身制を廃して最高指導部の任期を、2期10年までとする中国有史以来の画期的な制度を構想しました。そして、まず胡耀邦を後継者に指名しますが、彼は政治の民主化と指導者の若返りを図った結果、1986年から民主化意識を芽生えすぎた学生に担がれる形となりましたが、保守派の反発を受けて一気に失脚してしまいます。そして、続いて鄧小平が後継指名した趙紫陽も、やはり学生の民主化運動(それ自体は極めて真っ当なものと評価)に共鳴したことが仇となって、天安門事件によって失脚させられてしまいます。
悲観した鄧小平は、引退に先立って、次の後継者と次の次の後継者を同時に発表しました。一人目は江沢民であり、もう一人が胡錦濤です。江沢民を後継指名したのは天安門事件の直後であり、鄧小平自身の意図というより、長老らの推挙によって、愚鈍だが安定したパフォーマンスを示して才気がない、ということとして指名されたと言われます。そして、胡錦濤については、その才気と品性の高さ、真面目さといった要素を見込んで、鄧小平が最後に夢を託したと筆者は見ています。
さて、愚直で前例踏襲型の江沢民は、その10年の最高指導者の任期を大過なく(大した成果もなかったようですが)過ごしたあと、後継者を改めて考える必要はありませんでした。しかしながら、1997年にすでに鄧小平は死しており、江沢民は自身の権力及び利権を確保するために、その後も権力に執着し、その取り巻きも、胡錦濤政権に対してあらゆる手段を用いて嫌がらせを行います。胡錦濤指導部の政治局常務委員会(チャイナセブン、7人の最高権力者たち)に自らの息のかかった派閥の人間を多数入れ込み、足を引っ張るわけです。そういうわけで、胡錦濤は自身の権力基盤の10年間を通して、強力な政治権力を握ることができず、江沢民派に常に揺さぶられる状況に陥ったのです。この間に、なぜか親日である胡錦濤政権のなかで、反日デモなどが頻発しますが、これも、日本との間で戦略的互恵関係を構築しようとした胡錦濤指導部への当てつけや揺さぶりとして見るのが正解でしょう。
さて、このような中、習近平が次の最高指導者に選ばれた背景は、要するに、胡錦濤派と江沢民派との妥協の産物だったと見られます。胡錦濤としては、自分の子飼いであるエリートの共産主義青年団(共青団)の仲間である李克強を当然後継指名したかったところでありますが、江沢民派の理解がついに得られず、結果、太子党、要するにお坊ちゃん、中国共産党の高級幹部の子弟等で特権的地位にいる後継者、親の七光りの連中を担ぎ上げて、彼らを引き入れることで妥協をはかったわけです。
結果、お飾りの党総書記・国家主席を習近平に、李克強は首相で内政を司る、という妥協案で3派は一致したわけですが、このように、権力闘争の渦中にいる者たち自身も、この結末になろうとは誰も予想していなかったのではないかと思われます。そのくらい、かの国の政治権力基盤というものは薄くて脆いのです。
さて、2012年に権力を握った習近平は、慎重に政敵を追い落とし、李克強や胡錦濤を丸裸にし、ついに10年後、自身の任期を無期限とする憲法改正を成し遂げ、全人代において胡錦濤を途中堆積させ恥をかかせ、そして今回、自身に最後まで歯向かった李克強を、引退させた上で殺した、という「私説」を持っているのです。もちろん、証明不能な仮説で、いつの時代になっても解明はされないことだけは確定しているのですが、それでも、医療水準がかの国では最高度であるはずの、上海という大都市のど真ん中で、しかも水泳が趣味でよく泳いでいたという李克強が心身の疾患を抱えていたとは思えず、やはり神経毒でも盛られたかという疑念が湧いて出ては消えません。68歳で首相の重責に10年耐えた頑強な鉄人が、その権力を剥ぎ取られて1年で死去する、片や70歳のくまのプーさんこと習近平さんは悠々お元気にお茶など召していることを考えるに、あまりの落差に驚きを禁じえません。
さて、このように強硬な手段に出るということは、逆に、習近平体制というものが決して盤石なわけではなく、国家としての指導部の厚みが増しているわけでもなく、むしろこの習近平体制の終わりが近いのではないかと筆者は見ます。歴史は繰り返すと申しますか、民衆はよく見ておりまして、暗殺だろうが自然死だろうが、こういった事象を見て思うところがない人間というのはいないものであり、すでに言論統制が極限まで厳しいかの国からもいろいろと本音の述懐が漏れ聞こえてくるのが興味深いところです。
膨らみすぎた風船のように、習近平一強体制が崩壊するとき、そのときこそ、大きなチャンスです。1911年中華民国建国前の、軍閥群雄割拠の自然状態に戻り、つまりは22ある省が全て分裂し、その上でかの国による台湾侵攻ではなく、逆に台湾(国民党)が盟主となった新しい中華民国の再興がなされ、遼東半島を起点として満州に伸びる地をかつての伽倻、任那、加羅とした古来にならった少数民族雑居の楽園として再整備し、そして大連をかつての関東州として日本国で直轄し、それから台湾を盟主とした新中華民国と伽倻国、そして統一朝鮮半島と遼東半島の大連に楔を打ち込んだ日本でもう一度古代東アジア歴史をやり直すくらいの気概を我々東アジアの人民の力で見せてもらいたいと思います。イデオロギーや特定宗教といった権力への蒙昧を捨てて、万民の幸せに合致する国家群の再結成を図るのです。われわれ日本国の安全保障上、もっとも戦略的に考えた結果、かならずこのようになる、つまりは中華人民共和国なる1949年「建国」の老廃人工モザイク国家を解体させる、というのが一歩目の目標です。かつて存在したソ連の如く。
この萌芽を、筆者が生きているうちに見ることができれば万感です。
取り急ぎ李克強逝去の報に接した2023年10月27日に記しました。将来見返したときに、この答え合わせができますように。
以上