昔の自慢は痛いだけ
自らはいい歳でもう自分は絶対にやらないことを他人特に何も知らない子供や年少者に勧めるのは欺瞞と思うという話です
おはようございます。
昔の自慢は痛いだけという話をします。
本日は若干筆致強めでまいります。
2018年7月のマスコミ大新聞の記事に関して筆者があくまで個人的に思うことを空気読まずに述べるという配信記事です。
2018年7月9日(月曜日)付日本経済新聞の夕刊(第4版)という日本有数の大新聞の一面に「あすへの話題」というコラムがありますが、この日の内容は、コニカミノルタ取締役会議長の松崎正年氏が書いた「「はだしっ子」が原点」という文章でした。
少し引用しますと、
「(子供時代は)毎日自然と格闘していた。子供たちは群れを作って元気に遊び回っていた。今日のモラルでは非難されるべきことも沢山あったが、多くの経験を重ね、体力・気力・感性・知恵等々、生きていくための基盤が知らずして育まれ・・」
「(中略)・・踏切の無い線路を北側に歩いて渡って、・・・暗くなりコウモリが飛び回る時間まで遊び回っていた。(線路の)南側に住む子供と北側に住む子供の石合戦をはじめ、落とし穴を掘ってサバイバルゲームをした・・」
といった一見、さらっと読めば昔は良かった的な牧歌的な話が語られています。
しかしながら、少し注意して読むに、さすが、取締役会議長ともなると、昔の想い出話を書くだけで大新聞の一面を飾れるのかと思う気持ちと、こんな文章をよく掲載OKした新聞編集側の危機意識の欠如と二重基準(ダブルスタンダード)に控えめに申し上げて当惑というか、率直に言って大いに落胆失望したのです。
どこが筆者の感性を大いに下方方面に刺激したかと少しだけ説明いたしますと、これだけ幼少期のいじめとか職場でのパワハラやセクハラ、学校大学でのアカハラ(アカデミックハラスメント)といった問題が取りざたされていて、児童や学生、従業員や社員、働く人々個人のモチベーションを維持向上させることが急務とされているのに、こうした問題点には何らの解決方針も示さず、幼少時の腕白遊びや「危なそうなところで危なそうな(いや危ない)ことをする遊び」こそ万全の解決策だと思い込んでいる、救えない懐古趣味です。
控えめに申し上げて迷惑ですし、率直に言って有害です。
もし本当にここに書いてあることがいいことであれば、年の大小に限らず、この著者も、いい年なんでしょうが、今からも現役で「踏切のない線路を渡って」「石合戦」だの「防空壕探検」して、「今日のモラルでは非難されるべきこと」も沢山やればいいのです。
モラルで非難されるどころか、立派な犯罪です。
集団でのいじめや暴力暴行は暴行罪であり傷害罪ですし、踏切横断は鉄道法に道路交通法違反、落とし穴は(自分の土地でないことはほぼ確実でしょうから)不動産損壊罪や侵奪罪にあたります。
子供が暗くなって徘徊していたら、青少年保護条例で補導されます。
老人の徘徊だって警察保護の対象です。
または犯罪予備行為として職務質問の対象にもなりましょう。
さらに、このようなことをやったら今の世の中、いじめ、鉄道法違反、暴行障害としてすぐさま拡散され、思い切り世間の非難を浴び、SNSで叩かれ、そして学内アンケートによる教育委員会からのいじめ公表に始まり捜査機関の捜査と司直の裁判、そして大マスコミ(当然この文章を掲載している日本経済新聞も含みます)の格好の記事ネタとして長く繰り返し繰り返し晒されることになること必定です。
新聞の方も、こうした無責任なる文章を掲載しておきながら、いじめ問題などが起こると徹底究明が必要だと叩き批判するのはダブルスタンダードも過ぎる卑怯な対応だと思います。
現代を生きている、企業の経営者、管理職、そして学校の教諭や校長、そして家庭で実際に日々の子育てに奮闘している保護者や親に対して、この文章は全く、何ら有益なソリューションを提供していません。
石合戦して、自分の子供の目が見えなくなった怪我を受けたら、親としてはどうすればよいのでしょうか。
または、管理している学校の責任は?
怪我させた子供本人と、その保護者の教育責任は?
地域社会の取り組みは?
再発防止策は?
そんな特集記事を、大新聞やマスコミは、こぞって書き立てるのではないでしょうか。
それで、記事の閲覧数を増やそうと姑息にも考えるのではないでしょうか。
だいたい、はだしで駆け回って押しピン踏んで大怪我した、という場合ですら、裸足で走らせる方が悪い、いや押しピンを使わせている学校が悪い、という論調になるのが、今の大新聞・マスコミの大多数の報道姿勢ではないのでしょうか。
筆者は(筆者ももういい年ですけど)小学校のとき、普通の運動靴で外を走っていたら割れた瓶で凹型になっていて尖った部分を踏んづけてしまって、ガラスが足裏に刺さり、静脈を傷つけたのでしょう、靴下と靴が血でべっとり真っ赤に染まって大変なことになりました。
割れたビール瓶と破片はそこらへんに転がっている、そんな時代だったのです。
その時は危なかったな、注意して走らなきゃな、という感想くらいしかないですが、靴ですらそうなったのだから、やはり裸足は危ないな、というのが本音のところです。
防空壕探検なんて、天然洞穴探検で閉じ込められて1ヶ月近くかかって保護されたタイの子供達を笑えないのではないでしょうか。
もはや自らは功なり名を遂げた「いい年」であることを理由に、自分は絶対にもうやらないことを、他人、とくに何も知らない子供や年少者に勧めるというのは、大いなる欺瞞だし不誠実な態度だと思うのですがいかがでしょうか。
真におすすめすることであるならば、せめて野山を駆け回る、というところで止めておけばいいものを、俺だって昔は悪かったんだぜ、というのを公表して反省もなくかっこつけるじいさん経営者、控えめに申し上げても痛いしあまりにも恥ずかしすぎるのではないでしょうか。
恥ずかしい、という感覚すらないのではないかと思うのでした。
これと同じ文章やコメントを、70歳無職独身生活保護者の独居老人(男)が発した場合、受ける印象は全く変わると思います。
ですが、やったこと、は「やったこと自体」で評価されるべきで、「やった人」によってやったことの評価が変わるのはおかしい、ということです。
これは、筆者も大学法学部の刑事訴訟法のゼミでも、罪刑法定主義、ということで学びました。
ゼミでは圧倒的な劣等生であり不勉強であった筆者ですら覚えています。
大統領だろうが総理大臣だろうがスティーブ・ジョブズだろうが街中の浮浪者だろうが子供だろうが、言っていることは言っている人と分けて考えるということが必要なのではないかということを改めて強く思いました。
少なくとも、石合戦で怪我をした知人や知り合いが筆者のまわりにいたとしたら、筆者としては悲しいですし、小さい頃、冬の雪合戦で石を入れたのか偶然入ったのかが目に当たって失明寸前になった知り合いがいた、という話をリアルに知っている世代としては、全て子供のはだしっ子遊び、と割り切れる自称大物経営者、その想像力の宇宙レベルの粗さに驚きの思いを禁じえません。
いつもは適当な記事が多いのですが、こうした自称大物の「肩書ビジネス」に惑わされない、健全な批判的精神を持ってこれからも生きていければと思いまして、少しだけ筆者独自の解説をさせていただきました。
コニカミノルタのカメラなどは幸いにも持っていませんが、とりあえず他人のふり見て我がふり直せ、と改めて締め直したい筆者からのコメントは以上です。
(平成30年7月12日 木曜日)