平家の落人

壇ノ浦で滅ぶ

わたしは言いたいことを言い、リスクをとって勝負するのが大好きなのですが、どうやら連綿と流れるご先祖様の血のなせる業のようです。

わたし、母方の祖父が平家でして。実は、筆者の母方の実家の姓(かばね)は、「平田」といい、かつては京都の都や今は神戸と言われる大輪田の泊あたりでブイブイ言わせて、厳島神社なんかをおっ立てて調子こいてた一族の端っこのほうに陣取っていたものと思われます。でも、殺しそこねた源氏の総大将が差し向けた、源九郎義経とかいう出っ歯の貧相なすばしこいだけの痩男に追い込められ、福原京は陥落、わずか2年かそこらの間に追い詰められ、最後に残った唯一の拠点の下関の先っぽの彦島から壇ノ浦に打って出て、そして敗れてしまいます。そこで死なずに落ち延びた一族の片割れは、今の北九州市の八幡東区あたりにある「鞘ヶ谷(さやがたに)」といった地を経て大分県宇佐市に至り、そこで潜んで見出され、ふたたび中津藩の家老職まで盛り返したという家系です。室町時代に興った、という言い伝えですが、平田という姓からして、言えない出自、すなわち平家にゆかりがある一族であることは間違いないでしょう。そういう意味で、これを書いている筆者自身も、そんな一度は栄華を極めたけれども敗れて落ち延びて、そして700年の時を経て今につながる、栄光と挫折と流浪を味わっている一族の末裔なのです。そんなことを思いながら、この記事を書いています。

平安京、今の京都や大輪田泊、今の神戸の街に佇みますと、そんなご先祖様たちが時代時代にそれぞれ必死に熱っぽく生きたゆえに自らに繋がっているのだなあと胸が熱くなります。ですので、どちらかというと源平でいえば平家、赤い旗印の平家推し、というところです。

死んだ母親の名は和子といいます。日本古来の和名を冠する素敵な名前でしょう。平田のじいちゃんもありがとうございました。あなたの孫は、じいちゃんがずっと話してくれた歴史の好きな者に育ち、自身の子らや知人知己、友人やすれ違う通りすがりの人たちにも同じような話を暑苦しくやっています。真和塾メンバーに幸せあれ。

以上