虚無

【虚無】
こち亀に並んで驚異のロングセラーを続ける漫画は、そう、ジョジョですね。JOJOシリーズ。初出は週間少年ジャンプ。1986年12月。主人公は石仮面の謎を追う、眉毛が90度曲がったイケメン、イギリス貴族の誉れ高いジョナサン・ジョースター。特技はスタンド、じゃなくて波紋疾走(山吹色のオーバードライブ!)。スタンドの初出は第三部、孫の孫の空条承太郎、1989年3月です。ここから、また新しい人格の側面としてのスタンド同士の空中戦が始まるというわけです。それまでは、波紋疾走で吸血鬼を倒すという世界観だったのが、スタンド同士の戦いというプロット変更によって、より多様化し、舞台も部数を重ねるごとに変わってきて今に至るわけです。ですので、同じジョジョファンでも、「第三部、それか第四部くらいまでしかついて行ってない」筆者のような初出時期から少年だった今はいい感じの中年層から、今の若手としては、「波紋石仮面なにそれ」といった層までいろいろいるわけです。同じ作品で、これだけ変化してきたシリーズも珍しいです。まさに生態系。作者の荒木飛呂彦さんは、波紋の力で不死などと一部では言われていますが、この常に変化し続けるという原則から学ぶことは多いと思います。さて、いつものとおりに前置きのたとえ話が長くなりましたが、このジョジョシリーズに貫かれているメインテーマは人間讃歌です。生命尊重。人間讃歌。善も悪も、それぞれ必死に生きている、その生きざまが美しいのです。感動を呼ぶわけです。さて、こうした生命の息吹と対極をなすのは虚無というやつです。虚無vs人間讃歌、いきなりですが、これが今回のテーマです。
今感じたことは、なるべく早く外に出す、ラーメンは他の人の分が届くのを待たずに出てきた順から食べ始める、というのがわたしのモットーですので、書いておきます。
人間に対する尊重というものを教わる機会を得たものは幸せです。自らを含めて人間を適切に取り扱う術を学ぶ場を得たものは幸福です。人間は、もっと丁寧に研究されなければならない。人間の興味関心集中、そうした大切なものを手っ取り早く効率的にカネに変える技術に振り回されすぎないように。目隠しをさせて、人間の意識を一方方向に向け、養分を抽出しようとする存在にいつも疑問の目を向けよ、ということです。そのような存在は、世界のどこにも偏在しています。
恐れや恐怖で支配してくるのです。が、もっとも強力で恐ろしいのは何だと思いますか。これぞ「虚無」というやつだとわたしは思っています。虚無。映画ネバーエンディングストーリーでテーマになった、小学校の時に劇場で見て眠れなくなってしまったトラウマ的テーマ。これが虚無です。「生命とは、闇の中にまたたく光だ!」とは風の谷のナウシカのセリフです。世界は常に、虚無に覆われる危険にさらされているわけです。ていうか宇宙空間はほとんどが虚無。物質はほんのわずか。
虚無に苛まれている人たちが、職場や学校で、そして家庭でいじめを引き起こし、希望に満ちて進もうとしている人の足を引っ張ります。満足が得られず、それでいて自ら努力し前に進めない者が、いつも通りに机を叩いて恫喝したり、機嫌を悪くすることで他人の気を引こうとします。
そのように、堕ちてしまった人には虚無が渦巻いているように見えます。
さてどうするか。この人間が人間として必ず持っている臭い穴、腐臭を放つ虚無の闇とどう折り合うか。そのためには、内に内観し、外に積極的に振る舞う。これしかありません。
人間というものを研究するのです。手っ取り早く自分を相手に人間研究することを、これを「修行」と呼ぶのでしょう。何らかの腹落ちした考えに至るためには、静かな時間が必要です。そのような時間を持つには、早朝に散歩するなどがおすすめです。わたしは、早起きして勉強したり掃除しながら、こんなことばっかり考えています。
昼は人と会い、言葉を交わし、電子的には問答したり仕事の作業をしたりして、人と触れ合うようにします。夜は落ち着いて作業に費やし、早めに感謝の気持ちで寝につきます。残念ながら、この日で人生が終わるかも知れません。できるだけ、「今」死んでもよいように、身ぎれいにした上できれいさっぱりその都度その都度勝負をかけることを続けるようにしています。
闇にとらわれた個人や集団は、他を爪弾きにするわけですが、実は彼らこそが、他の世界から孤立しているのではないでしょうか。他者を支配したいという欲は、ここに留まっていないとあなたは生きられないという呪いの言葉となり、自分自身も縛ります。
そういう淀みから少しでも自由になるには、少しずつ、目の前のことから整えて、よい方向に自らの環境を変え、自らをも変えていくしかありません。とてもわずかずつでありますが、床のゴミを拾う、食器を片付ける、一本メールやLINEを丁寧に、相手のことを思い浮かべながら書く、これだけで変わっていきます。
ほとんどの「いじめる」側の人たちは、闇がかかっており、自らのやってきたこと、これからまたやることに震えて毎晩眠っています。自分等の精神も疲弊させています。突発性難聴になる人、過呼吸になってしまう人も多いと聞きます。いじめるという行為で、闇をごまかそうとしているのです。自分自身というかけがえのない存在を否定し、ないがしろにしている罪は重いです。取引先を騙し、かけがえのない下請けや協力会社を叩くだけの乞客も同様。残念ながら付き合ってはならない存在です。
そんな闇を払うためには、どうすればよいか。わたしの経験では、なんの権威も利害もない部外の者がゲームのルールそのものを変えられることがある、ということです。曰く、

他人のために自らを投入できる者
労を厭わない者
己の戦いをしている者に
人は付いていくもの
そんな挑戦の系譜を
自らの人生旅路の手土産に
したいと思って
日々を生きている
そんな考えを持ったものが
必ずいます

そういう人を見つけましょう。古代中国、ざっと2,500年前、春秋戦国の世。虚無が世界を覆った殺戮と虚無の世界に、墨子は他者を活かして自分を育てる、そして守城の技術を会得した強い個人をつくる、という兼愛非攻の人間教育を説きました。「墨攻」という本に詳しいです。なぜ墨子のやりかたが2,500年後の今も、この異国の地日本で、筆者のような浅学を捉えるのか。そういう人は、生命尊重、人間讃歌を旗印にしているからです。挑戦、感謝、希望と言ってもよい。ここに、人間を見るからです。この本を読んだのは、高校2年生の部活帰りに立ち寄った、北九州市八幡西区の黒崎駅前にかつて有った、井筒屋ブックセンターの3Fか4Fでした。本当は大学入試の参考書でも買うかな、と思いながらふと手にとったこの本を開き、そのまま2時間弱、左手の健が攣りそうになりながらあっという間に読み切った経験を今でも思い返すことができます。
こうした人間の、人間たる力をもって、虚無と同居し、虚無を包み込む。弱い自我が吸い寄せられる、膨張する虚無と希望のせめぎあい。このような人間模様をいつも個人で、そして集団で、組織で、国家で感じながら世の中を見るようにしています。そうすると、世界が全く変わって見えます。
長くなりました。
続きはお会いして、語り合いましょう。
以上