上を向いて歩こう

おはようございます。

2019年10月、令和元年の日本から昭和のニュースをお届けします。

お届けするのは、この令和元年10月22日(火)に祝日として、盛大に世界中の要人を招いて天皇陛下が即位を宣明された「即位礼正殿の儀」と同じ月に誕生日を迎え、当年もって45歳となりました、団塊ジュニア世代真っ只中の中年男子の筆者です。

昭和49年10月生まれの団塊ジュニア。

子供のころは、いつも、たくさんの同級生がいて、世界は子供で満ちていました。

それでも幼稚園(年中)の入園式の後に親が帰ってしまうのが嫌で校門(お寺の門)でしがみついて泣いていました。

そんな私も幼稚園のお泊まり会でのお化け屋敷大会では先頭・・から二番目でなんとか進み、泣かずに戻ってくるくらいには成長しました。

今でも桂幼稚園の園歌を「みどりのお庭のきんもくせい・・・」と歌うことができます。

そうして小学校に上がります。

企業祭という強烈大きなお祭りがあり、行きつけの病院は製鉄病院、鉄ビルストアで買い物をして同級生が転校する先は、「光」「堺」「大分」「君津」そして「釜石」。

当時は日本の大都市には必ず製鉄所(溶鉱炉)があり、日本とは大体上記の都市と、今いる「八幡」だと本気で思っていました。

東京や大阪、名古屋や京都を知るのはずっと後になります。

ビックリマンシールを集め、パッチンを飛ばしあい、総取りしていました。

立派な賭け事です。

子供会のソフトボール大会は、ガチで練習して、夜9時近くまで近くの「ベビー球場」の外野で練習しました。

練習場は、何と石砂利です。

そんな中でゴロのノックを受けるのです。

ボールがなくなると、見つかるまで探すよう監督に言われ、それでも見つからない時は全員でケツバットを食らいました(私がキャプテンでした)。

しかし、それが普通だったのです。

子供に虐待して、と言い出す親はいませんでした。

そんな中、日航機123号機が墜落し、上を向いて歩こうの歌手ほかみなさんが犠牲となり、奇跡的に生き残った4名の生存者を除く520名死亡の大災害を、毎日テレビで見ていました。

生存の4名の方々のプライバシーなど、あったものではありませんでした。

それから、ファミコンが出て、スーパーマリオで大ブームの後、すぐにドラゴンクエストが発売され、近くの百貨店「そごう(今はない)」に半年前から予約して買いに行きました(学校があったので、親に頼んで)。

近くのゲームセンターでは、普通にカツアゲされるので、両方の靴下に帰りのバス賃だけは確保して、お金持っていない→そこで跳んでみろ(ジャラジャラいったらカツアゲされる)と言われた場合の「対策」もバッチリやって、ゴールデンアクスなどのアーケードゲームの最後の輝きを楽しんだ世代です。

バブルボブルやシューティングゲームの1942、という、上手い奴がプレイし始めると50円で100面クリアみたいな猛者による、ゲーム回転率の悪さもあり、そうして台頭した家庭用ゲーム機(ファミコン)に急速にとって変わられる、そのような百貨店屋上やよく家族が利用するスーパーの中二階の、アーケードゲームコーナーがありました。

1942、なんてシューティングのアーケードゲーム、今、日米の旧軍関係者が見たらどう思うのか、今では想像もできません。

リアルすぎます。

小学校の体育館で、文部省特選のタイトルがついた「はだしのゲン」を児童みんなで見ました。

泣いて気分が悪くなった女子生徒もたくさんいました。

今や、「首実験」の写真を授業で見せるだけで人権問題になる、そんな令和の時代からは考えられない仕打ちです。

鉄ビルストアに併設した、昭和30年代の建築で十分オンボロの賃貸アパートに、親父は鐵工所勤めで母親は家庭内洋裁をやっています、みたいな友達の家で、ゲームしたり本の貸し借りをしたり、時々勉強をしたりしながら過ごしました。

中学校は、ヤンキーが仕切っていました。

国鉄は、JRになって車両内に所狭しと設置されていた子供の目の高さに合ったあの特注灰皿がなくなりました。

普通に灰皿を触った手で、子供が指しゃぶりをしていました。

そんな今の世界が見たらクレイジーな時代だったのです。

中学の部活動は、基本ヤンキーの集まりでした。

競技をしたかったのですが、その辺の付き合いが面倒でした。

使える参考書を選びに、4キロメートル先にある「黒崎駅」まで出向いて、そこの「ブックセンター」という、アマゾン全盛の令和の時代にはありえない巨大書店で、半日過ごして立ち読みしまくって、そして目指す本を握り締めて暖かくなった硬貨で買い、そして帰りのバス賃不足でまた歩いて帰る、みたいな生活でした。

そんな、やたら世間は景気が良さそうな中、天皇陛下が崩御されて時代が平成に変わります。

一気に、世の中が不景気になります。

天気の子、ならぬ公営団地(団地)の子である筆者は、「文字のわりと多い本が好きなだけ」で中学までずっと成績は1番だったので、高校は、その中学からわずかしか進めない域内公立進学高に進みます。

母親がリューマチとなり、一級障害になる、そのくせ入った部活(山岳部)で夜遅くなる→家事ワンオペの父親の迷惑になるのも悪いということで、母親の実家の祖父母宅に高1の冬より居候することになります。

山岳部の活動を続けつつ、祖父母に迷惑かけたくない一心で大学はすっぱり現役で九州外へ出ることを決意します。

ベルリンの壁が壊れます。

ソヴィエト連邦が15の独立国家共同体なる、わけのわからない存在に解体されます。

そうして、アルベールビルオリンピックの松任谷由美のテーマソングを聴きながら、コタツで缶ビール片手に勉強します。

当時は、ビールはゼット!というビートたけし(令和の今なら、世界の北野武、昭和の時代は8時だヨ!全員集合の裏番組のタケちゃんマン)がビールの宣伝に出るくらいの存在でした。

令和の今では考えられないでしょう。

上記二つの事象含め、祖父母(両方鬼籍に入った)をして、あんなことが起こるなんてね、と言わしめました。

消費税が3%で始まります。

天安門事件は、その物凄さの割にあまり報道されなかったです。

集中力と気合とヤマカンが当たり大学に滑り込みます。

大学は京都なのになぜか壬申の乱で有名な瀬田の唐橋を毎日わたるのではなく下を潜るボート部の生活に入ります。

学生運動と宗教活動が盛んな大学でした。

今の京都とは比べ物にならないくらい、当時の京都は、平安神宮のそばという絶好のロケーションに下宿を構えながらも、観光客もおらず閑散としており、文字通り、日本人にも見向きもされない修学旅行生がかろうじてやってくるだけの、死にかけた街。

それが筆者がいた時の京都の偽らざる実感です。

それから30年、観光客ひしめく京都がこんなことになるとは思いもよりませんでした。

阪神大震災と地下鉄サリンで世紀末を実感し、生きる実感を味わいます。

Jリーグが始まり、ドーハの悲劇を生で見て慟哭します、4年後、ジョホールバルで「初めての」ワールドカップ本戦に出場します。

当時の日本人選手は、鬼気迫る、触れたらキレそうな眼光でテレビカメラを睨み付けていました。

世界との「格差」は明らかに、高くそびえていました。

・・もっと書いていきたいところですが、とにかく、ここに書いたことは全て筆者の見た当時の世界であり、「今の感覚」からすると、ものすごく遠い世界のような感じもしますが事実です(あくまでも主観では)。

ワールドカップ出たことがなかったことも、ワールドカップなんて、キャプテン翼の漫画の中にしかなかったし、地下鉄でサリンが撒かれて数千人が被害を受けるなんて、直下型大地震が神戸淡路島に(それこそ数百年ぶりに)起こるなんて、そして5千人以上が死ぬなんて、日本の日本航空の国内線が、いきなり操縦不能になって墜落、520人が死ぬなんて、そしてソ連が解体されるなんて、天皇陛下が亡くなるなんて、神戸の透明な中学生が、知り合いの小学生の首を興味で糸鋸で切り落として、その首を自分の中学校の校門に置いておくなんて、そんな強烈な時代を少年時代にバンバン経験してきたことなんて、今の高校生に聞いたら宇宙人を見るようなものではないでしょうか。

それなのに、今45歳になりましたならば、世間では初老と言われ、地域社会には貢献せよだの、部下にいばり散らしてはパワハラだの、家庭でも介護に子育て、家事もできなきゃダメと言われ、随分多能になるだけの経験はさせてもらっているけれど、なんだか団塊ジュニアと言われて随分余裕のなくなった社会における高齢労働者としてこれからも大いに汗をかくことを期待されている感じがしてきついなあというようなところでしょうか。

しかしながら、結局のところ、自分の人生を決めて過ごして振り返り評価するのは自分だけであるというのが真実でしょう。

他人やコメンテーターから、「何とか世代」と言われようがそれは関係ないというものです。

そこで、我々は、冴えない人生とたまに言うのもいいけれども、それでもどっこいこの荒波を生きてきた、ということを噛み締めることで、結構自分の人生の味も出てくるのではないかと思うようになりました。

100万円のスーツをバブル時代に着ていた人も、それでもなんだか焦燥感があった、というような話を、安いハイボールを飲みながら語るにつけ、その100万円、何か別のことに使っておけばよかったのにとも思うけれども、100万円の(アルマーニの紫の)スーツが、数十年後に、安いハイボールでの飲み会の話のネタになるのであればそれもまたよしということなのでしょう。

そういえば、当時の最先端のWinPCだった98シリーズのデスクトップ、スタンドも入れたら35万円でしたっけ(遠い目)。

使ったのは結局ワープロソフトくらいでしたが。

それくらい、令和の現代からすれば、わけのわからない「遠い世代」からやってきた宇宙人なのです我々は。

日本での多数派にじわじわと成長しつつある、「平成生まれ」の諸君へ、「令和生まれ」が君たちの目の前に現れるまでざっと20年、その時の衝撃を受けた君たちの顔つきを、たのしみに、もうしばらくこの世で粘ってみようと思っています。

昭和生まれのこちらからの幻想は以上です。

(2019年10月23日 水曜日)

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(2019/01/08)平成31年1月7日をもちましてこの世から昭和生まれの20代は絶滅したことを宣言いたします

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