ある令和の土曜日に平成と昭和を懐かしむ長いエッセイ

令和から平成と昭和を振り返る
おはようございます。
2020年の2月のある朝のエッセイタイムです(おそらく長いです)。
人生は、時間でできていると思うのです。
昔から読んで今もたまにシーズン7か8になっている「ジョジョの奇妙な冒険」を読んでいた小学校から中学生の頃、時を止めるスタンドの話があって(ディオが操るザ・ワールド)、なぜか時が止まった世界の中を、このスタンドだけは自由に動き回り、さらに「止まっているはずの」他のスタンドや建物を、殴ったり壊したりしている描写があったのですが、この「殴られる」「壊される」という描写が本当は(ジョジョの世界観の中の整合性を取るという意味でも)変であり、時が止まっているのだから殴られた側は硬直しているはずであり、ザ・ワールドのスタンドの拳の方が砕けるだけではないかと考えたのです。
それとも、ザ・ワールドの周りだけ、時がとてもゆっくりでも流れ始めるので、それゆえにこのスタンドの周りだけ時が流れるということなのか、それが疑問なまま、45歳の中年の今まで過ごしてしまったことに焦りにも似た気分を感じる土曜日の朝でございます。
世界などとても適当に理解し認識されておりますようでして、先日ニュースの社会面を賑わせた、歌手の槇原敬之さんの二度目の麻薬(覚醒剤)使用での逮捕、という記事についても、ドンピシャ同世代の筆者のような世代の理解とは違って、例えば会社の比較的若手の同僚になると、1回目の逮捕があったんだ、みたいな感想なのはまだマシであり、そもそもこの人が「世界に一つだけの花」という当時では最強の国民的なアイドルグループのSMAPという5人組(最初は6人組だったけど、一人はオートレーサーになりたいと言ってやめた)が歌っていたミリオンセラーの本当の作曲作詞者であり歌い手だったというようなことは全く知られておらずにそれは誰ですか的な話になることから、我々数だけは多い、団塊ジュニア世代(何と同学年が200万人以上もいるという)もいよいよ40代後半となり、社会年齢階層の上のお荷物になってきたなあという感慨が押し寄せてきたわけでございます。
昭和は別に暗黒時代ではなくてそれなりに生き生きしていた
そういう意味では、この団塊ジュニアの世代である筆者らが子供だった頃においても、現代などよりよほど世間の親や大人などというものは適当なものであったかと思い出されまして、かの田中角栄が首相になった時には「この人は小学校しか出とらんのに偉い、今太閤じゃあ!」つってたのがロッキード事件で丸紅という総合商社から「よっしゃよっしゃ」と5億円せしめた、という容疑で逮捕起訴された時には「やっぱり手におえんな、ドカタ(土方、差別的な用語として放送用語や執筆用語としては絶滅)」。それから何年かして徹子の部屋スペシャルに出てきた角栄を観て「やっぱり苦労人じゃな、大した人、戦後首相のナンバーワンや」ってなってました。
現在の安部首相以下の政権における、公文書の管理とか、桜の会に(閣議決定では定義できないと「決定」した)いわゆる反社会的勢力の方々が参加されていたとか、なぜか特定の一人の検察官が国家公務員法で厳格に定められている定年を延長したりするという「措置」がなされるとかいった令和の課題や問題点など、全くもって吹き飛んでしまいそうな、そんな不条理な社会や世界を経験してきた、という妙な自負がございます。
つまり、大衆に定見などはまるで無し、大衆なんてこんなもんなのかと思ったのです。
そして話は歌手の槇原敬之、通称マッキーの覚醒剤所持の疑いでの2回目の逮捕に対して、またまた大衆やメディアが騒ぎ始めているのを見て、既視感を感じているわけです。
「世界にひとつだけの花」に涙した感動を返せなどと騒いでいるのです。
勝手に歌を聞いて、感動したのも、今ニュースを見てけなしているのも、完全に完璧に、明確に、具体的に大衆やメディアの側なのに(槇原氏側は現時点では何もコメントしていません)、裏切られたと宣ったり持ち上げたり、堕としたり、やっぱり涙の芸能界復帰、とか、回転ドアのように全く進まないところでぐるぐる回っていて、とても滑稽に感じるところです。
いい作品があると思った。
いい曲だと思って聴いた。
自分が感動して涙した。
カラオケで持ち歌にして歌い続けて営業した。
これらすべて、自分なのに、自分のことを棚に上げて、他人のことを雄弁に語る人間の何と多いことかと思いました。
そういう振る舞いは、自分の大切な時間を非常にもったいなく文字通り消費している、汚い言葉で申し上げればドブに捨てている、というようなことかと思いました。
そういう自分も、今からでも遅くない、自分のやるべきことに集中しないといけないと思いました。
唐突に終わりますが、本日の記事は以上です。
(2020年2月15日 土曜日)