(2020/04/05)筆者ライフワークの邪馬台国比定地について「甘木説(福岡県甘木市)」に変更します

おはようございます。

歴史好きですが、日本史においては戦国時代よりも明治維新よりも、そのはるか昔の古代史(奈良時代まで)が特に好きな筆者からのライフワーク記事です。

過去、散々魏志倭人伝に記された邪馬台国という国がどこにあったのか、ということを検討してきましたが、生まれてから45年、ここにきてようやく筆者としての固まった結論が出てきたのでご説明します。

最近、福岡県甘木市にある、平塚川添遺跡という遺跡に行ってきました。

ここは、弥生時代中期から後期にかけて(一部古墳時代のはじめにかけて)形成された、全国的にも極めて貴重かつ珍しい、多重(七重と言われる)環濠集落の跡です。

この点、佐賀県の吉野ヶ里遺跡に比べると広さは若干狭いが、低湿地帯に築かれた環濠集落としては九州唯一、かつ全国的にもほとんど類のない規模の遺跡です。

そして、地元の新聞(西日本新聞)によれば、長崎県壱岐島の「原の辻遺跡」と佐賀県吉野ヶ里の「吉野ヶ里遺跡」、それから最後に発見された福岡県甘木市「平塚川添遺跡」の3遺跡が、九州における3大環濠集落の遺跡ということで、それぞれの教育委員会、行政が連携をとって、言わば文化財姉妹都市のような協力関係となるという話もありました。

1990年(平成2年)に平塚工業団地の造成中に発見され、17ヘクタールの範囲で最大7重の環濠や柵列を巡らせた中に、竪穴住居跡300カ所や大型掘立(ほったて)柱建物跡が見つかったとあります。

そうして、ようやく、筆者も実際にこの目で見てきたというわけです。

平塚川添遺跡、それは素晴らしい、たたずまいを見せておりました。

吉野ケ里遺跡の剛性とは違った、城塞都市とは違った柔らかいたたずまい。

おそらく、防御というより宗教的に大変重要な、柔らかく静謐なる神域のような神秘性に満ちていました。

おそらく、ここが邪馬台国の中心部だったのではないか、と納得したわけです。

鬼童を良くした、日本古代史に燦然と輝く、超絶高位の称号「親魏倭王」を与えられた女王卑弥呼。

当時、まだ天皇家も明確となっていなかった時代に、三国志の魏に使いを送り、そうして239年に、この、日本古代史上空前の大称号「親魏倭王」をゲットした大女王。

天皇位を除いて、こんな激しく雄弁かつ輝かしい、権威権力を象徴する言葉はないと思っています。

まさに、日本史上最初で最大の英雄です。

その大英雄が統べた国々(連合国)が、いったいどこにあったのか、過去300年にもわたって、邪馬台国がどこにあったのかといういわゆる「邪馬台国論争」が繰り広げられてきました。

しかし、「魏志倭人伝」の記述中に「邪馬台国」という国名が登場するのは、以下のただ1回のみです。

南至邪馬台国 女王之所都 水行十日陸行一月

(投馬国から)南へ、10日間水行し、1か月間陸行すると、女王の都がある邪馬台国に至る。

一方、「女王国」という国名は5回にわたって使用されています。

この「女王国」と「邪馬台国」はどのような関係で用いられているのか?というところから様々な説がありますが、筆者は素人ながら、含む、含まれるの関係から、狭義の女王国、すなわち邪馬台国とまったく一緒との意味で女王国という場合と、女王国を、もっと広い意味、すなわち、宗主国たる邪馬台国を含む30国の連合体とする広義の(本来の)女王国という、2つが使い分けられていると考えています。

そして、宗主国邪馬台国は、女王卑弥呼がいるところであり、女王国とも言い換えられますが、女王国といった場合は、通常、卑弥呼を女王として戴く連合王国の総称という理解で、おそらく当時の魏の皇帝と官僚が認識した「倭国」とほぼイコールであると思われるわけです。

ですので、この倭国連合を、倭国として、その代表である卑弥呼に、親魏倭王という称号を与えたというわけです。

そして、魏志倭人伝のわかりにくい行程問題を、もう一度おさらいします。

狭義の女王国すなわち邪馬台国の中心地が、現在の福岡県甘木市、九州自動車道(高速道路)の甘木インターチェンジのほど近くの平塚川添環濠集落にあったのではないかということは、邪馬台国は奴国のすぐ南、ほど近い所にあったということになります。

魏志倭人伝の「帯方郡より女王国まで一万二千余里」という記述があり、奴国まで既に一万一千里ほどになる計算から、考えるまでもなく、自明のことだからです。

おそらく魏志倭人伝の著者の陳寿としては、対馬国から一支国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国と述べて、これで「女王国より以北」の概要説明をひとまず終わったつもりだと思います。

奴国は、女王国の隣の友好国ですよ、という記述は、後の国々の羅列でもう一回奴国が出てくることからも、やはり奴国の隣(すぐ南)こそが女王国、ということで間違いないと思います。

既に奴国で、邪馬台国の入り口に来ているのですから、あえて、重ねて、

「女王国より以北は、その戸数・道里は略載するを得べきも、その余の旁国は、遠絶にしてつまびらかにできない」

と表現しており、さらに、奴国より南は両側を山で挟まれた視界の向こう、といった地勢の記述にも見事に符合しますので、博多平野にあった奴国から、南のほうの大宰府を抜けて、筑紫平野と筑後川沿いにやってきた、ということなのでしょう。

その後で、女王国(邪馬台国を宗主国とする連合国)を構成するクニグニの名前がこれでもかと列記されて、最後に「奴国」があがり「此れ女王の境界尽くる所なり」と続きます。

だから、奴国は連合国の範囲ではありませんよ、先に述べた邪馬台国(女王国)の北側にある国々ですよ、と言っているわけです。

この「奴国」は「女王国より以北」で説明して前に出てきた奴国です。

違う奴国があるとか、〇奴国の記述漏れとか、いろいろな説はありますが、素直に読めば、明らかに同じ奴国のことを言っていることで間違いないと思います。

奴国を二回出すことで、これで「女王国」と「女王国より以北」が繋がり、邪馬台連合の地理的説明がひととおり完結するわけです。

もちろん、帯方郡からの絶対距離をはかり、そして邪馬台国の位置を、福岡県甘木市と比定したのですが、ここへ至る方角がずれているという問題は相変わらず残ります。

ただ、方角については、対馬から朝鮮半島に向かう航路を、九州人の筆者ですが、真北だと勘違いしていますが、添付の地図のとおり、南北航路ではなくて、実際は西に45度傾いています。

つまり、朝鮮半島から出た船は、真南に向かって対馬、壱岐、九州と到着するわけではなく、実際は東南に向かっているという事実が、この記述に影響しているのではないかという仮説を持っています。

こちらについては、(今回の記事では考察が追い付かず、仮説とさせていただき)また別の機会で考察したいと思います。

最後に、大学時代を京都(ではなくて大部分を滋賀県大津市螢谷、瀬田の唐橋そばのボート部(端艇部)合宿所)で過ごした筆者としては、意見を異にするのは非常にはばかられるのですが、例の畿内説の根拠となっている、「水行十日陸行一月」についての解釈を、「帯方郡から邪馬台国までの道のりの振り返り」という情緒的なものであるという考えを説明し、畿内説には立たないという立場を明確にさせていただきます。

いわゆる行程問題として、「帯方郡より女王国まで一万二千余里」という明快な記述があるにも拘わらず、奴国・不弥国を説明した後に続く記述、「南、投馬国に至るに水行二十日」さらに「南、邪馬台国、女王之都す所に至るに水行十日陸行一月」からその距離を換算しそれを足して、「邪馬台国は九州内には収まらない、すなわち畿内にある」とする論があります。

なぜ九州以外だったら畿内に一意に決まるのか、このあたりの関西人の独断力には尊重はできても同意はできないのですが、「水行十日陸行一月」は日程であってそのまま距離換算するのはおかしいと思います。

たとえば「日本の成田空港から飛行機でロサンゼルスまで12時間の空の旅。そこからニューヨークまで足かけ1か月の旅をした。」というような記述から、距離を割り出すような、おかしなことだと思うのです。

そして、筆者は、「南、邪馬台国、女王之都す所に至る水行十日陸行一月」は、女王国(邪馬台国)の入口までたどり着いたところで、改めて帯方郡からの行程を感慨を込めて振り返ったという程度の、情緒的な紀行文的な記述だと考えています。

もちろん陳寿本人の実際の体験ではないでしょうが、実際に行った人からそういった感慨のある話を聞いて、その気持ちを紀行文として、歴史書に彼一流のバランス感覚から付したのだと思っているのです。

それでは、本日も長くなりました。

こちらからの配信記事は以上となります。

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(2020年4月6日 月曜日)