当社特派員がオホーツク海を見てきました

当社特派員、オホーツク海を臨む北海道紋別市に行く

当社はさまざまな外部協力者に支えられ、その情報を得て教育事業や株式投資事業を推進しておりますが、このたび、当社特派員の一名が、オホーツク海を臨む、北海道紋別市に行ってきたのでその話をしたいと思います。

北海道は、人口500万人、実は九州の2倍の面積を持ちながら人口は九州の一角、福岡県の550万人より少ない広大な北の大地です。

その中でも、オホーツク海を臨む、紋別市は、飛行機で新千歳空港に降り立って、さらにレンタカーで5時間以上という、ものすごく行くのに不便な土地です。

なんでそんなところに人が行ったのか、ここに、離島や限界集落の再生を企業目的にしている当社の目指す課題があるからです。

実は、この北海道紋別市は、「道都大学」として私学が母体となり、かつて私立大学を誘致した歴史があるのです。

1973年(昭和48年)、東洋一の金山とうたわれた鴻之舞鉱山が閉山し、産業の先細り、というかいよいよ何の産業もなくなってしまう危機感を抱いた紋別市は、これまで現れては消えていた大学誘致構想を本格化します。紋別市は、過疎化への強い強い危機感から、過疎脱却の起爆剤として、道都大学の誘致という形で構想を発表します。

それは、

土木、建築、工業経営3学科を有する工学部大学として発足し、以後紋別市の特色を生かした水産学部、農学部、産業社会学部を増設して4学部9,600人、教職員400人の総合大学とする

というものであり、この構想自体は、たしかに高いハードルですが実現の可能性はあったと筆者は考えています。

しかしながら、おりしもオイルショックによる経済成長の停滞もあり、文部省(当時)による大学設置基準の見直しが理工系大学にとって資金面において特に厳しい条件となり、誘致された学園側は1975年には早々に工学部の設置を断念して文学部に変更します。さらに、学園側は1976年4月の私立学校振興助成法の施行により、学部を文学部から時代の要請に対応した(本当は補助金が多くつくだけ)社会福祉学部と美術学部に変更したのです。

筆者としては、この「変更」がこの大学誘致構想を徹底的に失敗させた唯一の要素と主張します。

1978年4月に開学し、当初の270名の学生を迎えて開学した大学でしたが、開学当初より学生の確保に苦労し、開校10年での累積赤字は実に30億円、度重なる自治体への資金負担や土地の無償提供、教職員住宅敷地の提供、上下水道、排水設備や電機施設の整備費用、寄付など、数十億円にもわたる資金負担を余儀なくされました。

そんなのは当たり前で、社会福祉系学部を卒業してケアマネージャーなどの資格をとっても、紋別市には勤める病院や介護施設もほとんどなく、美術学部に至っては、画材や資料も揃わず、そもそも展覧会も開けない、美術館やギャラリーもほとんどないことによって、そもそも学生の学習環境や就業環境が著しく低いことが問題だったのです。

そうして、大学の学部は、札幌市への移転等を繰り返し、ますます歯抜けになり、そうして最後には新千歳空港にほど近い、北広島市にキャンパスごとまるごと移転してしまい、紋別の大学誘致構想と運営の歴史は、大失敗に終わるわけです。

筆者としては、安易に文部省(当時)の甘言に乗って社会福祉系学部と美術学部という、絶対に離島や限界集落では成り立たない産業にシフトした大学を誘致しようと「変遷」した紋別市の行政関係者に強い警告と自戒を促したいと考えます。

すなわち、当初練り上げた構想である(再掲)

土木、建築、工業経営3学科を有する工学部大学として発足し、以後紋別市の特色を生かした水産学部、農学部、産業社会学部を増設して4学部9,600人、教職員400人の総合大学とする

をブラさず、文部省の補助金が少なくなろうが、工学系大学を堅持し、できれば釧路、旭川、苫小牧、函館にある国立高専(高等専門学校)に倣って、紋別市にも紋別高専を設置し、高専から工学系大学、大学院への研究職の道を拓いて、そこから東京や大阪、九州に東北に向けた工学修士や工学博士を輩出するようにすれば、全く違った景色が見えていたのに残念です。

工学系大学であれば、そのための高専や公立高校から、実学である工学部就学人材が一定数見込め、さらに研究施設やキャンパスにおける騒音や公害リスクも少なく、のびのびと研究に打ち込める環境が整備されているため、離島や田舎のデメリットがそのままメリットに転嫁するのです。

思えば、シリコンバレーやサンノゼといった、研究開発型の大学が集積する都市というのは、おしなべて、例外なく、そもそも田舎です。

理工系大学には、広大な研究開発施設が必要であり、本と図書館だけがあればよい人文学系学部とは一線を画します。

東大だって京大だって、本当に理工系学部で専門の研究をしようと望むなら、本郷や吉田といった、都心のいわゆるキャンパスを捨てて、本当に人がいない、柏とか桂とかいった、研究施設の近くに居を構えて実験や研究に明け暮れるしかありません。そうしないと、修士や博士にはなれないし、実業である企業は雇いません。

しっかりと長い時間かけて鍛えられ、勉強してきた専門性あるスーパー研究者やスーパーエンジニアは、全世界で、引く手あまたで求められています。

今世界を経済的に支配しようとしているMAGA(Microsoft、Apple、Google、Amazon)と呼ばれる超大手のIT系巨大企業、彼らが一番欲するのが、そうした超・研究者や超・エンジニア、超・プログラマーなのです。

絶対に、東大法学部に一番の成績で入学した、大学入試共通テスト満点の受験戦士ではありません。

ここんところ、賢く聡明なるみなさんには、絶対に間違えないでいただきたいので、例えば、筆者の地元であります北九州市八幡あたりで具体的に語りますと、

15歳で地元の中学校を卒業し、地元の公立高校(東筑高校とか八幡高校とか)に入学し卒業(3年、18歳)、そして地元戸畑にある九州工業大学に入学、4年で卒業しそのまま同大学大学院に進み(2年)、そこから九工大か九大(でなければ東大か京大か阪大)の大学院博士課程に進み、奨学金を得て海外(アメリカ西海岸あたり)の研究生になって報酬を得ながら研究生になり、卒業と同時に年収1,500万円の研究職かプログラマとして就職、このとき27歳、みたいなのが理想です。

地元の中学校を卒業し、地元の公立高校に入る代わりに、地元の国立高専(北九州高専)に入って5年修学し、そのまま2年の高専専攻科に所属し、大学卒業資格を身に着け、そのまま九大か九工大の修士課程に進んでもOKです。世界的には、九工大だろうが東大だろうがほぼ同じです。絶対的に、修士とか博士とかいう学位が、それのみが「学歴」なのです。

それよりも、自分の興味と関心が続く研究分野を見定めることが重要で、それが機械工学なのか電子工学なのか、ITなのかロボットなのか化学系なのか、いろいろありますがとにかく学問の名に値しないゆるふわ系学部とは一線を画して進みましょう。企業は冷徹に人の能力を見極めて採用し、事業に従事してもらいたいと願うものです。

冷徹に、世界標準の「修士」「博士」で判断するものであることを肝に銘じてください。

その採用に応募するだけの自信を、長い学業を通じて身につけるのです。

大学(学部)生活をウェイウェイしているだけでは、決して身につかない本当の実学を学ぶキャリアを身に着けましょう。

こうした構想を、北海道のオホーツク海を臨む、なにもないのが一番の強みである紋別市の行政担当官が持てなかったこと、変に都会に憧れてしまったところが、彼らが、結局補助金サルベージャーである私立大学に喰い付くされ、そして捨てられた末路なのだと思います。

それでは、よい人生のために、よい投資を。

合同会社鈴木商店 社主