日本が戦国時代末期に企てた唐入り(朝鮮出兵)に関する真面目な考察(2015/07/01)

日本の人口

おはようございます。

2015年7月のはじめの日本の戦国時代に関する歴史振り返り記事です。

先日のAIIBについて記事を書きながら思い出したのですが、日本にも同じような話が高度経済成長以外の歴史にもあります。

当時、実に1世紀にも渡って戦乱に明け暮れた結果、世界最大の銃保有国となりおおせ、戦慣れした戦闘集団を延べ30万も二度にわたって朝鮮半島に投入した、いわゆる秀吉の唐入り(朝鮮出兵)のことです。

なぜ、唐入りは成功しなかったのでしょうか。

そもそも唐入りは、秀吉の師匠であった信長の発想と言われていますが、個人の野望というより、人口1,000万人ちょっとの日本において当時武功あった大名や家臣に領地を分け与えるには、日本は狭すぎる、大陸に向かおうと考えたのではないかと思うのです。


外向き思考の主君信長の夢を継いだのかもしれない

信長の忠実な部下であった秀吉には、その後の徳川幕府がやった、鎖国してだぶついた大名を改易していくという内治方策を採る発想には至らなかったのでしょう。

やったとしても、傘下大名からの反逆(本能寺のような)が恐ろしかった、とも思えます。

徳川幕府は、豊臣家を滅亡させる中、こうして浪人となった元大名たちを半ば意図的に大坂城に集めるように仕組んだ一面もあるかと思います。

そこでわらわら集まってきた全国の牢人浪人に対し、一網打尽の一気の勝負をかけ、だぶつく大名を根こそぎ取り除いた、これが関ヶ原に続く大坂の陣の歴史的性格なのかもしれません。

唐揚げ、と間違えて書きはじめた割にはわりと真面目な話となりました筆者からは以上です。

(平成27年7月1日 水曜日 最終更新:平成28年7月1日 金曜日)

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