(2015/06/17)偉大な創業者を持つと続く二代目は苦労するという考察を続けてみます
鶴ヶ城(本文とは直接関係ありません) |
おはようございます。
2015年6月の起業に関する配信記事です。
二代目考察を続けます。
本人の才能はあったにもかかわらず、不運にも時や機会が味方せずにうまくいかなかった二代目ももちろんたくさんおりまして、こちらの方が多いという話です。
信長の嫡子であった信忠は天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変の際、信長と共に備中高松城を包囲する羽柴秀吉への援軍に向かうべく京都の妙覚寺に滞在しており、信長自害の知らせを受け、二条新御所に移動し篭城し善戦したものの、衆寡敵せずに自害しました。
時に信長から数時間しか時を与えられなかったわけです。
信忠が脱出に成功していたら歴史は変わったかもしれませんがそれはわかりません。
秀吉の子秀頼も不運だった
また秀吉の子秀頼ですが、こちらは本人の資質以前に、あまりにも親子の時が離れており、秀頼幼少時に最大の後ろ盾である秀吉が亡くなってしまうというところが残念なところでした。
残ったのは生母淀君と腹心五奉行筆頭の石田三成でしたが、これで着々と力を付けてきた徳川方を抑え込むのは難しかったでしょう。
何しろ秀吉最盛期においてすら、それに次ぐ力を持ったのが家康です。
秀吉亡きあと、その子秀頼など、文字通り赤子の手をひねるようなものです。
家康は秀吉よりも5歳年下ですが、10年以上秀吉よりも長生きしました。この与えられた時の差も重要でした。
この貴重な時間で、家康は後継者秀忠への権力移譲と徳川幕府の基盤を確立することができたのです。
最後の総仕上げで、豊臣家を滅ぼすところまできっちりやり遂げるところまで、家康は天寿を全うしました。
石田三成は再評価したい
因みに石田三成は秀吉にもっとも可愛がられた人物像の後継者と言えます。
後世の評価は大河ドラマ「軍師官兵衛」に描かれたごとく大変悪いものになっておりますが、配下に当代一の猛将と謳われた島左近を抱え、知勇兼備にして人望厚い大谷吉継を「刎頚の友」としているあたり、並の人物ではありません。
しかしながら、主人である秀吉の死と嫡子秀頼との「時の隔たり」を埋め合わせることはできませんでした。
このように、天の時、地の利、人の和がそろわず、無念にも消えていった二代目もあります。
結局、初代二代目三代目に限らず、いつも謙虚で新鮮な気持ちで事に当たって長生きすることが結局一番大事なのかもしれません。
やっぱり初号機が一番好きなこちらからは以上です。
(平成27年6月18日 木曜日 最終更新:平成28年6月18日 土曜日)
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