もはやいい国つくろう鎌倉幕府じゃない
語呂合わせ「1192(いいくに)つくろう」で、鎌倉幕府が成立した年号を覚えた人は多いはずです。
というか、1192(いいくに)というのが染みついています。
しかし、令和の現在の中学歴史教科書の多くは、鎌倉幕府の成立が、1192年ではなく1185年に変わっています。
語呂合わせなら「1185(いいはこ)つくろう鎌倉幕府」です。
大学院修士課程(最短で24年)2回分を終了しようとしている歳月を経た、お歳を召したお兄さんな筆者も今、覚えました。
いいはこつくろう鎌倉幕府。
さて、文章として、鎌倉幕府成立前後の経緯について、中学校教科書(面白い)を引用してみます。
鎌倉を拠点とした源頼朝は、無断で朝廷から官位を受けた弟の義経を許さず、義経をかくまった平泉の奥州藤原氏をほろぼして、東北地方をも支配下におきました。一方、にげた義経をとらえることを口実に、1185年、国ごとに守護を、荘園や公領に地頭を設置しました。頼朝は1192年に征夷大将軍となり、武士による新しい政治を始めました。頼朝の開いた鎌倉幕府は、家来となることを誓った武士を御家人にして、先祖から引きついできたその領地の支配を認め、てがらに応じて新たな領地や守護・地頭の職を与えました。
帝国書院「中学生の歴史」
さすが名文ですね。
簡潔にして要点をとらえています。
鎌倉って、鶴岡八幡宮を頂点にした、武士の武士による武士のための都であって、その整備をひたすら東国の田舎(失礼!)で進めてきた頼朝とその一派にとっては、平家を追討しながらまさに京都の都(平安京)でミイラ取りがミイラになっているさまを晒した弟の義経は、人気があっても、いや人気があることからこそ絶対に許すことができない存在でした。
ついでに、義経をかくまったとして、予てからの目の上のたんこぶであった奥州藤原氏(こちらも貴族から土着化して武士化した、平家のようなもの、と彼ら認定)をも滅ぼして、東国一帯を勢力下に置きます。
そして、義経を捕らえることを口実に、国ごとに守護を置き、荘園や公卿領に地頭を設置し、自らの配下を全国各地に配置し、日本を事実上支配しました。
つまり、朝廷からもらう権威は、征夷大将軍という最低限な名誉職的なものにして、あとの実務支配部隊と制度と幕府本拠地は別に一から作り上げたのです。
ほとんど全く同じようなシステムを、また一から作り上げるのですから膨大な手間と経費をかけることになりますが、これを京都でやることにしたら、必ず旧勢力にうまいこと取り込まれて平家化することは、当の平家や義経さんが再現してしまったのですから仕方ありません。
このことをもって、実質的な鎌倉幕府の成立だろうと現在の多数説は1192年説から1185年説にシフトしているのです。
もともと、奈良時代前からの律令国家としては、国には国司、郡部には郡司を朝廷から派遣していたわけですが、ここからは、実質的な実力(戦力、戦闘団)を保持する武士階級の棟梁たる源氏の大将が、征夷大将軍(常設)として鎌倉にあり、国司に代わり守護、郡司に代わり地頭をめぐらし、全国の政務を執るという形に変わったわけです。
凄いことですね~。
やってることは実力による支配だけで全く変わっていませんが、政治の中心が平安京から鎌倉という武士の都に移ったのです。
そういうことを知ったうえで、鎌倉を訪れてみると、また感慨も違うことだと思います。
そんな歴史的な武士の都の鎌倉、また行きたいので誰か連れて行ってください。
以上